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(最後の挨拶)ドイツという国

 2020 年 6 月から書き始めたこのブログですが、時間的な理由から今回でひとまずお終いにします。(実は今回でこれまで発表した記事が丁度 100 を数え、偶然ながらキリのいいタイミングとなりました。)「ひとまず」というのは、まだまだ書くことはいくらでもあり、これからのドイツや欧州の動きには変わらず注目し続けるつもりですので、またいつか時間が取れるようになったら再開できるかもしれないということです。これまで定期的にお読み下さった方々には、この場を借りて心からお礼を申し上げます。   私はドイツを尊敬できるいい国だと思っています。 30 数年前に二年だけの滞在を予定して外国人留学生としてドイツにやって来た私が、その後もこの国に留まって就職し家庭を作り、結果的にこの国を自分の「居場所」に決めたきっかけはあくまで個人的事情に過ぎませんでしたが、その後 30 数年経った今、私が相変わらずドイツ国籍を持たぬ外国人でありながら自分もドイツ社会の一員であり、だから私もこの社会に貢献しなければならないのだと自然に思えるまでになった事実が、ドイツがいい国である証拠だと思うのです。多くの問題と責任を抱えながらこの国が西側先進国の価値 -自由、平等、人権、民主主義、法治体制など- を正面に掲げ続け、またそれを実現している裏には、それぞれの立場からの市民たちの努力があります。政治を厳しく監視して批判の声を上げ、意見の対立が生じることを恐れぬジャーナリストたち、彼らの批判を正面から受け止めて国民の前で自分の言葉で弁明と説明に努める個々の政治家たち、そしてその双方を監督し気に入らなければ声を上げ、あるいは通りに出ていく市民たち。そしてもちろんこのようなすべての動きに、必要とあれば独立した権力としての法のチェックが入るのがドイツです。このドイツの姿こそが法治国家において民主主義が機能する形なのであり、これが持続するためには社会全体が日々それを望み、努力を続けていくことが必要なのだということを、私はドイツで学びました。   世代の対立も、政党間の対立も、性別や職業、宗教や出自や居住地に端を発する意見の対立も、互いの自由と権利を認め合い同じ社会の一員としての互いへの敬意を失わない限り、それは結局はドイツ社会を豊かにする良いものなのだという共通の認識が、この国にはあります。意見を対立さ

右翼出版社の存在権利

フランクフルトに住む市民の毎年 10 月の楽しみは、フランクフルト書籍見本市( Frankfurter Buchmesse )だ。戦後 1949 年に始まり、以来毎年 10 月後半に 5 日間に亘ってフランクフルト市の中心にある巨大な見本市会場で開催されるこの書籍見本市は、「本の見本市」として今や世界最大規模であり、毎年この時期には文字通り世界から 30 万人近くの人々がフランクフルトに集まる。その約半分は出版社、書店、エージェント、図書館の買い付け責任者などの業界人だ。見本市というからにはここはまずは商売の場であり、業界人の間で版権の交渉や契約がなされ、企業間の様々な取引が行われる。従ってフランクフルトでも、開催期間 5 日間のうち最初の 3 日間は業界人とメディア関係者だけが入場でき、商売の交渉の場が持たれる。同時にその背後では、一日通して様々な国際会議や講演、シンポジウムが開かれては国際規模での出版業界の情報交換が行われるのである。この書籍見本市は大変規模が大きいのでメディア関係者も大勢入り、毎年この時期は新聞やテレビ・ラジオのニュースで盛んにその様子が報じられる。またドイツ出版業界で毎年選出される大きい文学賞や平和賞の発表や授賞式もこの機会に同時に行われ、特に、ドイツ語で書かれその年に出版された最優秀長編小説に贈られる「ドイツ書籍賞( Deutscher Buchpreis )」と、文学、学問、芸術の分野で平和理念の実現に貢献する活動を行った人に贈られる国際平和賞「ドイツ書籍販売業界の平和賞( Friedenspreis des Deutschen Buchhandels )」は注目度が高く、こちらも大々的に報道される。そして開催期間最後の二日間となる週末の土・日に、いよいよこの見本市は本好きの一般市民に門戸を開くのだ。世界各国から毎年 7000 を超える出版社がブースを開いて自社の新刊本を並べているのだが、フランクフルトの見本市はもはや単に、本好きの市民がこれらの本を眺めに行くというだけの場所ではなくなっており、この二日間はいわば本を中心に据えた大きいお祭りになっている。毎年一般市民の訪問客が、二日間で 15 万人近くも集まるのはそのせいだ。人気作家のサイン会や朗読会があちこちで開かれているかと思えば、こちらではベストセラー作家に有名コメンテーターがインタ

急げ、電気自動車

昨年ドイツは、「爆発的ブーム」と呼んでいいほど電気自動車の売上台数が増加した。連邦統計局の数字によれば、 2020 年中に認可を受けて販売された電気自動車の数は約 19 万 4000 台で、この数は前年 2019 年の三倍以上となる。また、今年 2021 年にしてもこの 9 月末までに認可を受けた電気自動車は、すでに昨年一年間の台数を軽く上回る約 23 万 7000 台に達したという。その結果現在ドイツの路上を実際に走っている電気自動車の数は 50 万~ 60 万台、そしてこれとほぼ同数のハイブリッド車が走行しているということだ。 2014 年までは年間 1 万台以下、 2019 年までもせいぜい年間で数万台しか販売されなかった電気自動車が、なぜ昨年来急速に売上台数を伸ばしているのかというと、大きな理由は国の助成金政策にある。   一般に「環境ボーナス( Umweltprämie )」と呼ばれる新車購入時の助成金制度をドイツの連邦政府が最初に実施したのは、実は金融危機後の 2009 年のことであった。この時は、国の基幹産業である自動車業界を金融危機のダメージから救うことが第一の目的であり、新車購入時に国が一部費用を負担することで消費者の購買意欲を高めようとしたのである。同時に国は、買い替える自動車は当時の二酸化炭素排出規制に合ったエコ車両でなければならないとし、環境対策との一石二鳥を狙ったのであるが、そのためにこの助成金は「環境ボーナス」と名付けられた。要は、これまで使ってきた「環境汚染車両」を廃車にし環境に優しい新車に買い替える消費者に対して、国が購入費用の一部を助けるというのが「環境ボーナス」の内容だったのである。従ってこれは別名「廃車ボーナス( Abwrackprämie )」とも呼ばれ、最終的にはこちらの通称の方が世の中に広まり、その結果「廃車ボーナス」という語がこの年の「世相を表す言葉( Wort des Jahres )」に選出されるというおまけ話までくっついた。広まったのは名称ばかりではなく、実際にこの制度を利用して新車に買い替えた消費者は多かった。当初連邦政府は総額 15 億ユーロをこの助成制度に予定し、新車一台につき 2500 ユーロ(当時の為替レートで約 33 万円)助成、対象は最大 60 万台までと決めて 2009 年 3 月初旬に申請

ポーランドとの喧嘩はEUの「終わりの始まり」?

目下ポーランドの市街地では数万人の市民たちによる反政府デモが行われているのだが、注意して見るとこのデモはかなり奇妙なものであることが分かる。というのも、彼らのスローガンの中には、「われわれは EU に残る!」とか「われわれは欧州だ!」といったものが多く見られ、デモ参加者たちは EU の旗を翻しながら、“ PolExit (ポーランドの EU 離脱)”に反対してポーランド政府に抵抗しているようなのだが、ポーランド政府側には EU を離脱する意思など全くないのである。ポーランド市民を憤らせ通りに駆り立てている“ PolExit ”は、ポーランド政府も含め本来誰もそんなことを言い出してはいないのに、市民が反対を唱える対象を作るために誰かがどこかからポーランド市民に投げて寄越したボールのようなものなのだ。では一体誰がこんな実体のないボールを投げて寄越してきたかということになるが、ポーランド政権与党の保守ナショナリズム PiS (法と正義)党は、国民を反政府に駆り立てるのに他にアイディアが思い浮かばなかった野党の仕業だ、との見解を述べている。その際 PiS 党が最大のデマゴーグとみなしているのが、ポーランドの野党である保守リベラルの PO (市民プラットフォーム)党を率いるドナルド・トゥスク氏なのだ。そして実際にトゥスク氏がこのデモを組織した一人であり、市民たちに向かって次のように呼びかけたことがドイツでも伝えられている―「裁判官の法服をまとった一団の者たちは、 PiS 党トップから指示されるままに、われわれの祖国を EU の外に踏み出させることを決めた。この一握りの者たちはどんな嘘をつくことも厭わない。ポーランドの憲法が EU とは折り合わないものであるかのような嘘さえつくのだ」。このままではポーランドは EU から「はみ出てしまう」と述べたトゥスク氏の言葉が、ポーランド市民には、ポーランドが EU を離脱する危険があると理解されたのである。トゥスク氏はポーランドの元首相でもあり、親 EU 派の政治家として 2014 年から 2019 年まで EU 大統領とも呼ばれる欧州理事会議長を務めた人物だ。 EU 内での信望が高く、またポーランド国民にも大変人気のある政治家であるトゥスク氏が、ポーランド市民たちに向かいこのような言い回しでポーランド司法を非難したその裏には、もちろんそ

統一記念日:メルケル首相最後の演説

今年の東西ドイツ統一記念日は、旧東独ザクセン‐アンハルト州の都市ハレ( Halle )がホスト都市となって祝われた。コロナ感染予防のために、短期間に大勢の人が一か所に集中する市民祭りは今年も断念され、その代わりにハレでは 9 月半ばから町の中心を使って「統一 EXPO 」が開催されていた。だがクライマックスの 10 月 3 日には、人数は例年より少な目ではあったものの、政界の要職にある政治家たちがこの美しい古都に顔を揃えての記念式典が開かれ、陽が沈むと古城を背景にドローンがオーケストラ演奏に合わせて夜空にドイツの形や文字を次々描き出すという壮大な光のショーが繰り広げられた。こうして今年第 31 回目の統一記念日も無事に祝われたのであるが、この日メルケル首相は祝典で、おそらく彼女の首相在任期間中最後となる大きい演説を行った。約 20 分間の演説であったが、終わるや政党の違いを超えて大勢の聴衆が立ち上がり、メルケル氏に盛大な拍手を送った。これは、単に政界を去り行くメルケル氏の労をねぎらうためだけの拍手ではなかったろう。メルケル氏の演説はいつになく個人的な体験や感情を盛り込んだものであり、そのオープンな心情の吐露が真っすぐに聞き手の心に届いたのだと思われる。今回メルケル氏は連邦首相としてではなく、かつての東独市民の一人としてドイツに語りかけたのである。   メルケル首相の演説はまず、ドイツの東西統一が多くの旧東独市民たちの勇気と信念、そして身の危険をも恐れぬ大胆な運動によって勝ち取られたものであることを思い出すことから始まっている。これに周囲の東欧諸国の市民たちが共鳴し、彼ら自身が同様に民主主義を求める積極的な運動を繰り広げたことが、ドイツの壁の崩壊を大きく後押しした。またメルケル氏は米国、フランス、英国といった西側諸国の理解と支援にも言及し、更に彼らの理解を得られた裏には、ドイツの政治家たちによって連邦共和国創立以来着々と続けられてきた他国との信頼関係を築く努力があったことにも触れている。この、多くの人々の努力と多くの国の支援があって初めて実った果実を今私たちは享受しているのだ、とメルケル氏は語る。 東西分断の終焉と民主主義は・・・私個人にとっては、いつにあっても特別な事柄です。なぜなら私はこれが努力で勝ち取られたものであることを知っており、更に大事なことに

投票に行こう

またも総選挙テーマになるが、今回は若い世代の投票率の話をしたい。前回のブログで、先日のドイツ連邦議会選挙の投票率が 76.6 %であったことを報告した。ドイツの有権者総数はざっと 6040 万人と言われているので、実に 1400 万人以上が投票しなかったことになる。 76.6 %という数字はここ最近では特に低い数字ではないのだが、かつて総選挙では伝統的に 80 %以上、時には 90 %を超えることもあったほど高い投票率を誇ってきたドイツでは、あまり振るわない数字である(注:今世紀に入って 6 回あった総選挙の中では 3 番目に高い数字であるが、前世紀と比べると最低)。特に今回のように、連邦共和国史上最も先が読めない総選挙と呼ばれ、政党間の差が小さく、最終的にどういう組み合わせの政権が誕生するのか、誰が首相になるのか全く予想できないという状況では、それだけ個々の票の重みが増して有権者の関心も大きかったはずである。更に、今回は初めて緑の党が首相候補を立ててきたことで、環境問題への関心が大きい若者世代が従来より多く投票に向かうことが期待された。実は現時点( 10 月初旬)で、今回選挙の年代別投票率データはまだ発表されていない。ただ、数字こそ違えど、毎回総選挙のたびに年代別投票率は全く同じカーブを描く。投票デビューする 18 歳~ 20 歳は、全体平均より少々低め。だがそれより更にガクッと落ち込み全体の最低になるのが 21 歳~ 24 歳の若者層。その後年齢とともに投票率は上昇を続け、 60 代の高齢者層が最高となり、全体平均を大きく上回る数字を上げる。そして 70 歳以上になるとまた投票率は落ち込み全体平均レベルに落ち着く、というカーブである。従って、今回もおそらくはこの同じカーブを描いているものと予想されるのだが、これとは別に、毎回総選挙のたびにじわじわと変化しているショッキングな数字がある。それは世代別有権者数だ。私は毎回総選挙でこのグラフを見るたびに、ドイツの少子高齢化の先行きへの不安をひしひしと感じるのであるが、今回もまた数字はこれまでの傾向を加速するものであった。若い有権者の数がどんどん減り、高齢の有権者数ばかりが毎回増えていくのである。今回総選挙で 29 歳以下の有権者数は全体の 14.4 %(前回 2017 年は 15.4 %)、翻るに 60 歳以上は 38

ドイツが選んだ結果:「信号」か「ジャマイカ」か

  投票日直前まで何回も行われてきた有権者アンケート調査によれば、各党の支持率の差が小さ過ぎて、最後まで行方が予想できない混戦模様にあったのが今回の連邦議会選挙であった。そのためにメディアがいつにも増して盛んに選挙戦を報じ、有権者がそれに乗せられて右往左往した結果、投票日には国民の多くがただただ、「もう選挙戦は沢山、とにかく早く終わって欲しい」と願いつつ投票所に向かったとさえ言われた。その選挙が、昨日 9 月 26 日に終わった。だが投票結果は出たものの、当初の予想通り、新政権の姿どころか首相が誰になるかさえ未だ不明のままだ。各党得票率の順位こそ、事前に行われた数多くのアンケート調査通りであったのだが、微妙な数字の揺れから小さい「番狂わせ」も生じ、投票の結果ドイツの将来は投票前より更に混沌とし先が見えない状態に陥ったとも言える。現副首相で連邦財務大臣であるオーラフ・ショルツ氏を首相候補に立てて戦った SPD (ドイツ社会民主党)が 25.7 %(前回 2017 年選挙時の 20.5 %から上昇)を獲得し、第一位となった。(注:以下、今回の各政党得票率の数字は、本日 9 月 27 日時点での暫定数字である。)現政権与党第一党の CDU/CSU (キリスト教民主・社会同盟)は 24.1 %と二番目についたが、この数字は同党史上最低、歴史的大敗とも言える数字であり、前回選挙の 33.0 %から大きく下落している。そして三位となった緑の党は、前回の 8.9 %からは大きく躍進する 14.8 %という目覚ましい得票率を上げたものの、今春まではアンケート調査で 20 %を軽く超える支持率を獲得していたことを思うとこの数字は敗北というに近く、首相候補で立っていたアナレーナ・ベアボック氏にはつらい結果となった。第一党となって緑の党と連立し、もう一つ別の政党を呼び込んで三党で政権を作ってショルツ氏を連邦首相にするつもりでいる SPD にとっては、緑の党の数字が伸びなかったことも問題だが、一番の番狂わせは左党の不振であった。前回選挙で 9.2 %を上げていた左党は、今回事前のアンケート調査結果を更に下回る 4.9 %という悪い数字となり、政権に参加するどころか危うく連邦議会に出ることさえできなくなるところだったのである。(注:連邦議会に進出するためには、 5.0 %以上の得票率が必要と

膨張する連邦議会

今ドイツで目前に迫っている連邦議会選挙だが、この連邦議会の議員定数は 2002 年以来 598 人とされている。しかし 2017 年に発足した現政権の議員数はなんと 709 人であり、定数を実に 100 人以上も上回っている。もともとこの定数は全国に 299 ある選挙区を倍にした数であり「最低人数」という目安に過ぎないので、 2002 年以降毎回選挙のたびに当選する議員数は 600 人を超えていたのだが、それにしても現在の 709 人というのは多過ぎる。なぜこんなことになるのか、そもそもなぜこれまでもいつも 598 人をはみ出ることになってきたのか。これが実は現在のドイツ連邦議会選挙制度の大きな問題点であり、もう長年憲法裁判所を巻き込んでは「合憲か、違憲か」という点からあれこれ論議の対象となってきた事柄なのである。今回は、現時点でもまだ解決されていないこの問題をテーマに取り上げたいのだが、そもそもなぜ議員数がこんなに増えてしまうのかを説明する前に、まずドイツの連邦議会選挙の投票方法を紹介することから始めよう。   有権者は 18 歳以上のドイツ国籍を持つ成人。「 16 歳以上」に引き下げる話も出てきているが、現時点ではまだ「 18 歳以上」である。有権者の人数は現時点で約 6040 万人。投票方法は、日本の衆院選同様にドイツでも小選挙区制と比例代表制の両方が使われている。ただし、日本では両制度が「並立」して使われていると言われるのに対し、ドイツでは両制度を「併用」していると言われる。有権者が候補者ではなく政党を選ぶ比例代表制の結果で決まる政党ごとの議席比率が、日本では、比例代表制に最初から割り当てられている議員数(現在 176 人)にしか適用されないのに対して、ドイツでは、この比例代表制の結果こそが全議席数( 598 議席)の配分を決めるのである。ドイツの有権者は、小選挙区制の方では自分の選挙区から候補者の一人を選び(「第一の票」と呼ばれる)、比例代表制の方では政党を一つ選ぶ(「第二の票」)のだが、選挙の結果(勝敗)を決めるのはこの「第二の票」による比例代表制の方であり、小選挙区制の結果は政党間の勝敗を決めるものではない。分かり易いように簡単な仮定の例を挙げて説明すると、今、総議席数を 100 とし、政党 A が比例代表制の投票の結果 25 %の得票率を上げ

大学生のための奨学金制度と教育の機会均等

所得格差と社会層の分断がコロナ禍にあってますます問題視されてきているドイツだが、その中で教育の機会均等は、ドイツでは一見実現されているように見える。何しろ小学校から大学まで、授業料が無料なのだ。子供をわざわざ授業料がかかる私立学校に入れる親もいるが、そのようなケースはいまだ少数派であり、かなりの富裕層に限られる(たとえば、 2019 年時点で私立小学校に通っていた生徒は全体の 3.6 %)。小学校もその後の学校も原則公立のドイツでは、義務教育期間( 9 年生=中学 3 年生まで)を超えて大学を修了するまで授業料がかからない。子供が学校に通っている間に親が支払うのは、遠足や修学旅行などの行事、特別な教材やコピー代など、その時々でかかる実費のみである。大学に入れば半年に一回「学期料( Semestergebühr )」を納めねばならないが、これは授業料ではなく、大学側の事務手続き料金とその大学がある自治体や州の統一公共交通料金の半年分(注:つまり学生は、学期料を納めることで自動的に、大学所在地周辺地域のフリー定期券を半年分購入することになる)を合わせた料金であり、大学によって差はあるものの半年で 4 ~ 5 万円を納めるのが平均的なところであろう。それ以外に払わねばならないものはない。国立大学ですら授業料が年間 50 万円以上かかり、加えて入学金を数十万円も支払わねばならない日本から見ると、ドイツはこの意味で天国のように思えるかもしれない。しかしそれでも、ドイツの若者が誰でも金銭的に簡単に大学に行けるわけではない。大学に入れば多くの若者が親元を離れて自活することになるので、生活費がかかる。仕送りをする余裕のない家庭もあるし、生活費を稼ごうと本人がアルバイトを増やして学位が取れるほどドイツの大学は甘くない。たまたま地元の大学に入り親元から通うことになったとしても、就職せずに勉強を続ける子供を簡単に養い続けられる家庭ばかりではない。こうして、金銭的理由から大学進学を断念せざるを得ない若者を救うために 1971 年に連邦政府が導入したのが、 Bafög と呼ばれる国の奨学金制度である。まだ全国の大学生総数が 50 万人にも満たず、現在( 300 万人弱)よりはるかに少なかった時代の話である。   Bafög とは「連邦職業教育促進法( Bundesausbildung

ボン共和国時代の女たちの闘い(新作映画紹介)

  先日封切られたばかりのドイツ映画を見に行った。「屈しない者たち( Die Unbeugsamen )」という題名の映画であるが(トーステン・ケルナー監督、ドイツ国内封切りは 2021 年 8 月 26 日)、これは統一前の西ドイツの時代、国内では一般にボン共和国( Bonner Republik )と呼ばれる 1949 年から 1990 年までの時代に、当時まだ男性政治家に牛耳られていた連邦議会で、女性議員も男性議員と同等の存在であることを認めさせようと闘った女性政治家たちに焦点を当てたドキュメンタリーである。この映画は、制作側のコメントを全く出さぬまま、ただ当時の連邦議会の様子やメディアの報道、女性議員たちの発言や議会における演説、そして後から振り返っての彼女たちの回想やおしゃべりを記録するだけの内容に徹しており、彼女たちが闘ったこの時代をどう捉えるか、現在のドイツとどう結びつけるかなどの評価は、完全に観客一人一人に委ねている。それでも監督の意図は明らかだ。映画は、おそらく 1960 年前後であろう、まだ若々しいヘルベルト・フォン・カラヤン氏がダイナミックに力強く指揮を振るベルリンフィル(おまけに曲目は、ドボルザーク「新世界より」のあの迫力ある第四楽章)の演奏場面から始まる。この映像で、当時ベルリンフィルの楽団員が全員男性であったことがさりげなく示され、そこにボン共和国時代初期の政治を仕切っていた大物政治家たち(もちろん全員が男性)の顔写真や男だけのやり取り場面が次々被っていくという秀逸な出だしだ。葉巻やパイプを手に、三つ揃えやスモーキングジャケットを着こんだ男たちがなにやらひそひそと、あるいは男同士に特有のやり方で言葉を交わしている映像が流れて、いかにも「政治は男のもの」であり、女が一人もいない場でいかに男の政治家たちが生き生き伸び伸びと羽を伸ばして(遊んで)いたかを示す映像が流れる。そしてここで、 1980 年に連邦議会入りし男の領域に踏み込んだ女性議員の一人であるレナーテ・シュミット氏(社会民主党)の言葉が紹介される―「権力は女性のものではないと思われていました。当時は『女性と権力?』と末尾に『?』が付けられたのです・・・でも私はその『権力』が欲しかった。権力とは、自分が正しいと信じていることを通すために必要な力のことです」。主に 1970 年代から 1

メルケル政権と大型危機

16 年という長期に亘ったメルケル政権だが、今振り返り連邦共和国歴代政権と比べて目立つのは、メルケル首相の在任期間の長さよりも、いかにこの政権が次から次へと国際的、世界的な大型危機に見舞われてきたかという点である。メルケル首相が最初に直面した大型危機は、 2008 年 9 月半ばに経営破綻した米投資銀行リーマン・ブラザーズに端を発する国際金融危機、いわゆる「リーマン・ショック」である。恐慌の波は直ちにドイツにも押し寄せた。 10 月に入った途端、欧州最大の不動産投資銀行であったミュンヘンの Hypo Real Estate が倒産の一歩手前にあることが判明するのである。“ Too big to fall (「大き過ぎて倒産させられない」)”のケースであった。ここが倒産すれば、世界金融システムへの影響が大き過ぎる。従って国が介入して助けざるを得ず、メルケル政権は、連邦が保証することで複数銀行によるコンソーシアムが何百億ユーロという単位のクレジットを発行するよう計らった。これが、この金融危機で国が助けねばならなかったドイツの金融機関の最初のケースとなった。こうして Hypo Real Estate を救うことができたと安心したのも束の間、その直後の 10 月 4 日、パリに出向いていたメルケル首相の携帯電話が鳴る。連邦銀行( Bundesbank )と金融監督局( Bafin )のトップがそれぞれ電話をしてきたのである。救えたと思っていた Hypo Real Estate の負債は、実はクレジット額を軽く超えていたというのだ。おまけに連邦銀行は、 100 ユーロ札と 200 ユーロ札が間もなく不足するという緊急事態を伝えてきた。銀行破綻の危険を察知した大勢の人々が自分の貯蓄を守ろうと銀行に急ぎ、現金を引き出し始めたのである。 ATM に群がる国民たち、という一国の経済が破綻する際の最悪のシナリオが、ドイツでも現実になりかけた瞬間であった。メルケル政権は、すぐに手を打たねばならない事態に直面したのである。   ドラマチックな展開から話を始めたが、この時のメルケル首相の動きは、良い意味でも悪い意味でも伝説になっている。電話で危機が伝えられた翌日の 10 月 5 日、まだ連邦財務省が Hypo Real Estate 倒産回避のためにあたふたしている同じ時、メルケル首

アフガニスタンドラマとドイツの罪

  ( 2021 年 8 月 11 日付記事「アフガニスタン撤退は、われわれが敗北を認めたということ」の続報) 誰もが予想できなかったスピードでタリバーンが首都カブールをも制圧し勝利宣言をした 8 月 15 日の翌日、 8 月 16 日に、ドイツ連邦外務大臣のハイコ・マース氏(ドイツ社会民主党)は次のような声明を発表した。 目下カブール空港から入って来る画像は劇的で、恐ろしいものである。ここ数日の展開は何もかもが極めて苦いもので、アフガニスタンはもちろん、われわれにも長期的な影響を及ぼすであろう。言い繕うことはできない。われわれ全員 -連邦政府、情報機関、国際社会- が、状況を見誤ってしまったのだ。アフガニスタン政府軍がタリバーンを前にこんなにも早く逃亡し降参してしまうとは、われわれも、われわれのパートナーも、そして専門家たちですら予想できなかった。・・・今われわれが目にしなければならない光景、カブール空港の今この時の様子は、非常な痛みを伴ってわれわれ全員の心に迫って来る。・・・これからわれわれは、数多くの根本的な点を問いただしてはそれに答えていかねばならない。だが今は何より火急の問題が一つある。・・・連邦政府としてわれわれは、当地の壊滅的状況からなるべく多くの人間を救出するためにできるすべてのことをやる。われわれは人々の避難や救援活動を大至急開始している。現在すでに、連邦防衛軍の一機がカブールに向かっており、数時間のうちにカブールに到着する予定である。続く二機もすでに途上にある。・・・ マース外相はこの声明の中でドイツ政府も過ちを犯したことを認めているわけであるが、それは、「まさかこんなにもあっさりとタリバーンがアフガニスタン全土を制圧し、統治権を握ってしまうとは考えていなかった」という、アフガニスタン政府の戦力と自立性について過大評価していたことを指している。だがこの時点ですでにドイツの野党とメディアは、マース外相、そして連邦防衛相の アンネグレート・クランプ‐カレンバウアー氏(キリスト教民主同盟)の二人を、この悲惨な結末の主要責任者として吊し上げ始めていた。この二人の責任が厳しく問われたのは、過去 20 年間当地で様々に連邦防衛軍の任務に協力してきたアフガニスタン市民たちをなぜもっと早く脱出させなかったのか、という点である。   野党の緑の党(

メルケル政権16年間の総決算:ドイツはどう変わったか

総選挙まであと一か月を切った今、テレビでも選挙関連番組が増えており、各政党の動き、政治家インタビュー、有権者の意識調査などが盛んに報じられている。一方で今回の国政選挙には「 16 年間続いたメルケル政権の終わり」という側面もあり、この 16 年の間にドイツはどう変わったのか、メルケル政権下で改善された点、悪化した点、解決されぬまま次政権に引き継がれる問題は何か、といった点に注目した番組も多く作られている。国連データセンターには Human Development Report Office という部署があり、ここでは毎年国連加盟国のデータを分析しては相互比較し、 Human Development 指数を出して世界ランキングを作っている。比較の基準項目は三つ― ①平均寿命、②教育年数(国民が職業教育も含めて実際に学校に通った年数の平均)、③経済的豊かさ(国民一人当たりの GDP )であり、 2020 年のランキングではドイツは 189 か国中 6 位であった。(参考:米国 17 位、日本 19 位、フランス 26 位)これは誇れる順位であろう。更にこのランキングの担当責任者によれば、ドイツの強みは、 2008 年の金融危機を経て一時的でも発展が止まる、あるいは後退した国が多い中で、ドイツだけは折れ線グラフが順調に上昇を続けている点だという。アンゲラ・メルケル氏が連邦首相に就任した 2005 年と今現在を比べると、実際に多くの数字が改善しており、昨年来のコロナ・ショックをひとまず脇に置くと、一見ドイツはこの 16 年間全体的に良い発展を遂げてきたように見える。だが、これは表の顔である。国連のデータはあくまでその国の平均値を扱っているに過ぎず、教育年数にしても経済的豊かさにしても国内の格差が拡大しつつあるのが今のドイツで、平均値だけを映す表の顔の裏には暗い現実も隠されているのだ。その現実に光を当てて、本当のところ今ドイツはどういう状態にあるのか、本当の意味でメルケル政権の 16 年間はドイツ国内をどう変えたのかを浮き彫りにするドキュメンタリー番組が最近放映された。公共テレビ局 ARD によるルポルタージュ「焦燥、不満、分裂?( Ungeduldig, unzufrieden, uneins ?)」( 2021 年 8 月 23 日放映)がそれである。これは、ドイツが現在

ドイツの公共放送局の姿

昨年末、ドイツの公共テレビ・ラジオ放送局の受信料値上げをめぐって、ドイツ東部のザクセン・アンハルト州でちょっとした事件が持ち上がった。ドイツの公共放送局の財政は住民が世帯ごとに支払う受信料から成り立っているが、 2013 年以来毎月 17,50 ユーロ(約 2200 円)であった受信料を今年から 86 セント(約 110 円)値上げしたいということで、昨年放送局側が各州に申請を出していた。受信料は全国統一でなければならないので、各州の議会でこの値上げ案は可決されねばならない。そして本来なら、この案はどの州にあってもすんなりと議会を通るはずであった。実際に 15 の州ではすぐに可決されたのであるが、最後の州、ザクセン・アンハルトで州議会が議決を放棄するという事態が生じる。連立政権を作っている三つの与党間で賛否が割れたからであるが、こうして 16 州の合意が得られず値上げができなくなった公共放送局側は、この一件を憲法裁判所に持ち込まざるを得なくなる。政治が放棄した決断を、司法に求めたのだ。そしてその判決が下りたのが、先日、 8 月 5 日であった。放送局側は値上げの根拠として、①公共放送局に求められる質の高い番組作りに、値上げが不可欠であること、②州が値上げを拒絶することは、基本法第 5 条で認められている「報道及び放送の自由」の侵害にあたること、の二つを挙げたのであるが、憲法裁判所はこれを全面的に認めた。判決の骨子は次のようなものであった―「各州には、放送局が引き受けている任務を果たすに十分な財政上の前提を整える責任がある。州がそれをせず、放送局の基本的権利である財政要請が満たされないなら、それは放送の自由を侵すことになる」。また、放送局が必要とする財政については、「受信料をいくらにするかは、政治的関心とは無関係に決められねばならない。政治サイドは必要とあれば公共放送を改革することはできるが、改革と財政干渉を混同してはならない」と述べ、一言で言うなら、政治が公共放送の財政に直接口を出してはならぬことを明らかにしたのである。原告の放送局側はこの結果に大満足を表明し、こうして受信料は今年の 7 月付で値上げされることになった。同時にこの判決は、ただ受信料の値上げを認めたのみならず、民主主義社会において公共放送が担っている役割をこれまで以上に重んじ、その立場を強化する判決だ

3人のロシアの若者たち - 運命が変わったこの1年

丁度今から 1 年前の昨年 8 月、ロシアの反体制政治家でプーチン大統領の強敵であるアレクセイ・ナバリヌイ氏の毒殺未遂事件が起こった。ドイツの病院で一命を取りとめたナバリヌイ氏が、今年 1 月にモスクワに戻った途端ロシア警察に逮捕され、 2 月初旬の一方的な裁判で 2 年 8 か月の禁固刑判決を受けたこと、その後収監された刑務所で様々な嫌がらせを受けては本人もハンガー・ストライキなどで抵抗を続けたことは、多くの国で報道されたであろう。しかし、今ナバリヌイ氏がどうしているのかについては、関心の高いドイツでも時折刑務所内の監視カメラに映った氏の姿や、本人が発信しているソーシャルネットワーク上のコメントや写真が報道されるぐらいで、実際のところどういう目に遭っているのかはよく分からない。氏の釈放を訴える EU の再三の要求にもプーチン大統領は、「法を犯して裁かれた者は、どうすることもできない」と全く取り合わぬままに来ている。そんな中、 8 月 2 日、ドイツの公共テレビ局 ARD は 30 分間のルポルタージュ「毒を盛られて‐ナバリヌイ事件はロシアをどう変えたか」を放映した。番組の中心に据えられたのは、いずれも 20 代後半の 3 人のロシアの若者たちである。 3 人の軌跡は交わらないものの、彼らには、ナバリヌイ氏毒殺未遂事件に端を発したロシアのこの 1 年間で自分の運命が大きく変わった、という共通点があった。 ARD 局の取材班はこの 3 人のロシア市民を 1 年間追いかけて、彼らのその時々の心情を聞き、 1 年経った今彼らがどういう地点に立っており何を考えているのかを報告する番組を作ったのである。「これは、彼ら 3 人の物語である」という言葉で、このルポルタージュは始まっている。   一人は、クセーニアという名前の 28 歳の女性。彼女は昨年 9 月に行われたロシアの統一地方選挙で、人口 50 万人を超えるシベリア西部の都市トムスクの市議会議員に立候補した。ロシア政府を批判する反体制側の党から出馬した彼女を応援するために、ナバリヌイ氏も 8 月半ばのある日モスクワから駆けつける。そして、この夜宿泊したトムスクのホテルでナバリヌイ氏は衣服に毒を仕込まれて、翌日モスクワに戻る途上の航空機の中で発病するのである。毒を盛られる直前にナバリヌイ氏と会っていたクセーニアさん