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ドイツが選んだ結果:「信号」か「ジャマイカ」か

  投票日直前まで何回も行われてきた有権者アンケート調査によれば、各党の支持率の差が小さ過ぎて、最後まで行方が予想できない混戦模様にあったのが今回の連邦議会選挙であった。そのためにメディアがいつにも増して盛んに選挙戦を報じ、有権者がそれに乗せられて右往左往した結果、投票日には国民の多くがただただ、「もう選挙戦は沢山、とにかく早く終わって欲しい」と願いつつ投票所に向かったとさえ言われた。その選挙が、昨日 9 月 26 日に終わった。だが投票結果は出たものの、当初の予想通り、新政権の姿どころか首相が誰になるかさえ未だ不明のままだ。各党得票率の順位こそ、事前に行われた数多くのアンケート調査通りであったのだが、微妙な数字の揺れから小さい「番狂わせ」も生じ、投票の結果ドイツの将来は投票前より更に混沌とし先が見えない状態に陥ったとも言える。現副首相で連邦財務大臣であるオーラフ・ショルツ氏を首相候補に立てて戦った SPD (ドイツ社会民主党)が 25.7 %(前回 2017 年選挙時の 20.5 %から上昇)を獲得し、第一位となった。(注:以下、今回の各政党得票率の数字は、本日 9 月 27 日時点での暫定数字である。)現政権与党第一党の CDU/CSU (キリスト教民主・社会同盟)は 24.1 %と二番目についたが、この数字は同党史上最低、歴史的大敗とも言える数字であり、前回選挙の 33.0 %から大きく下落している。そして三位となった緑の党は、前回の 8.9 %からは大きく躍進する 14.8 %という目覚ましい得票率を上げたものの、今春まではアンケート調査で 20 %を軽く超える支持率を獲得していたことを思うとこの数字は敗北というに近く、首相候補で立っていたアナレーナ・ベアボック氏にはつらい結果となった。第一党となって緑の党と連立し、もう一つ別の政党を呼び込んで三党で政権を作ってショルツ氏を連邦首相にするつもりでいる SPD にとっては、緑の党の数字が伸びなかったことも問題だが、一番の番狂わせは左党の不振であった。前回選挙で 9.2 %を上げていた左党は、今回事前のアンケート調査結果を更に下回る 4.9 %という悪い数字となり、政権に参加するどころか危うく連邦議会に出ることさえできなくなるところだったのである。(注:連邦議会に進出するためには、 5.0 %以上の得票率が必要と

膨張する連邦議会

今ドイツで目前に迫っている連邦議会選挙だが、この連邦議会の議員定数は 2002 年以来 598 人とされている。しかし 2017 年に発足した現政権の議員数はなんと 709 人であり、定数を実に 100 人以上も上回っている。もともとこの定数は全国に 299 ある選挙区を倍にした数であり「最低人数」という目安に過ぎないので、 2002 年以降毎回選挙のたびに当選する議員数は 600 人を超えていたのだが、それにしても現在の 709 人というのは多過ぎる。なぜこんなことになるのか、そもそもなぜこれまでもいつも 598 人をはみ出ることになってきたのか。これが実は現在のドイツ連邦議会選挙制度の大きな問題点であり、もう長年憲法裁判所を巻き込んでは「合憲か、違憲か」という点からあれこれ論議の対象となってきた事柄なのである。今回は、現時点でもまだ解決されていないこの問題をテーマに取り上げたいのだが、そもそもなぜ議員数がこんなに増えてしまうのかを説明する前に、まずドイツの連邦議会選挙の投票方法を紹介することから始めよう。   有権者は 18 歳以上のドイツ国籍を持つ成人。「 16 歳以上」に引き下げる話も出てきているが、現時点ではまだ「 18 歳以上」である。有権者の人数は現時点で約 6040 万人。投票方法は、日本の衆院選同様にドイツでも小選挙区制と比例代表制の両方が使われている。ただし、日本では両制度が「並立」して使われていると言われるのに対し、ドイツでは両制度を「併用」していると言われる。有権者が候補者ではなく政党を選ぶ比例代表制の結果で決まる政党ごとの議席比率が、日本では、比例代表制に最初から割り当てられている議員数(現在 176 人)にしか適用されないのに対して、ドイツでは、この比例代表制の結果こそが全議席数( 598 議席)の配分を決めるのである。ドイツの有権者は、小選挙区制の方では自分の選挙区から候補者の一人を選び(「第一の票」と呼ばれる)、比例代表制の方では政党を一つ選ぶ(「第二の票」)のだが、選挙の結果(勝敗)を決めるのはこの「第二の票」による比例代表制の方であり、小選挙区制の結果は政党間の勝敗を決めるものではない。分かり易いように簡単な仮定の例を挙げて説明すると、今、総議席数を 100 とし、政党 A が比例代表制の投票の結果 25 %の得票率を上げ

大学生のための奨学金制度と教育の機会均等

所得格差と社会層の分断がコロナ禍にあってますます問題視されてきているドイツだが、その中で教育の機会均等は、ドイツでは一見実現されているように見える。何しろ小学校から大学まで、授業料が無料なのだ。子供をわざわざ授業料がかかる私立学校に入れる親もいるが、そのようなケースはいまだ少数派であり、かなりの富裕層に限られる(たとえば、 2019 年時点で私立小学校に通っていた生徒は全体の 3.6 %)。小学校もその後の学校も原則公立のドイツでは、義務教育期間( 9 年生=中学 3 年生まで)を超えて大学を修了するまで授業料がかからない。子供が学校に通っている間に親が支払うのは、遠足や修学旅行などの行事、特別な教材やコピー代など、その時々でかかる実費のみである。大学に入れば半年に一回「学期料( Semestergebühr )」を納めねばならないが、これは授業料ではなく、大学側の事務手続き料金とその大学がある自治体や州の統一公共交通料金の半年分(注:つまり学生は、学期料を納めることで自動的に、大学所在地周辺地域のフリー定期券を半年分購入することになる)を合わせた料金であり、大学によって差はあるものの半年で 4 ~ 5 万円を納めるのが平均的なところであろう。それ以外に払わねばならないものはない。国立大学ですら授業料が年間 50 万円以上かかり、加えて入学金を数十万円も支払わねばならない日本から見ると、ドイツはこの意味で天国のように思えるかもしれない。しかしそれでも、ドイツの若者が誰でも金銭的に簡単に大学に行けるわけではない。大学に入れば多くの若者が親元を離れて自活することになるので、生活費がかかる。仕送りをする余裕のない家庭もあるし、生活費を稼ごうと本人がアルバイトを増やして学位が取れるほどドイツの大学は甘くない。たまたま地元の大学に入り親元から通うことになったとしても、就職せずに勉強を続ける子供を簡単に養い続けられる家庭ばかりではない。こうして、金銭的理由から大学進学を断念せざるを得ない若者を救うために 1971 年に連邦政府が導入したのが、 Bafög と呼ばれる国の奨学金制度である。まだ全国の大学生総数が 50 万人にも満たず、現在( 300 万人弱)よりはるかに少なかった時代の話である。   Bafög とは「連邦職業教育促進法( Bundesausbildung

ボン共和国時代の女たちの闘い(新作映画紹介)

  先日封切られたばかりのドイツ映画を見に行った。「屈しない者たち( Die Unbeugsamen )」という題名の映画であるが(トーステン・ケルナー監督、ドイツ国内封切りは 2021 年 8 月 26 日)、これは統一前の西ドイツの時代、国内では一般にボン共和国( Bonner Republik )と呼ばれる 1949 年から 1990 年までの時代に、当時まだ男性政治家に牛耳られていた連邦議会で、女性議員も男性議員と同等の存在であることを認めさせようと闘った女性政治家たちに焦点を当てたドキュメンタリーである。この映画は、制作側のコメントを全く出さぬまま、ただ当時の連邦議会の様子やメディアの報道、女性議員たちの発言や議会における演説、そして後から振り返っての彼女たちの回想やおしゃべりを記録するだけの内容に徹しており、彼女たちが闘ったこの時代をどう捉えるか、現在のドイツとどう結びつけるかなどの評価は、完全に観客一人一人に委ねている。それでも監督の意図は明らかだ。映画は、おそらく 1960 年前後であろう、まだ若々しいヘルベルト・フォン・カラヤン氏がダイナミックに力強く指揮を振るベルリンフィル(おまけに曲目は、ドボルザーク「新世界より」のあの迫力ある第四楽章)の演奏場面から始まる。この映像で、当時ベルリンフィルの楽団員が全員男性であったことがさりげなく示され、そこにボン共和国時代初期の政治を仕切っていた大物政治家たち(もちろん全員が男性)の顔写真や男だけのやり取り場面が次々被っていくという秀逸な出だしだ。葉巻やパイプを手に、三つ揃えやスモーキングジャケットを着こんだ男たちがなにやらひそひそと、あるいは男同士に特有のやり方で言葉を交わしている映像が流れて、いかにも「政治は男のもの」であり、女が一人もいない場でいかに男の政治家たちが生き生き伸び伸びと羽を伸ばして(遊んで)いたかを示す映像が流れる。そしてここで、 1980 年に連邦議会入りし男の領域に踏み込んだ女性議員の一人であるレナーテ・シュミット氏(社会民主党)の言葉が紹介される―「権力は女性のものではないと思われていました。当時は『女性と権力?』と末尾に『?』が付けられたのです・・・でも私はその『権力』が欲しかった。権力とは、自分が正しいと信じていることを通すために必要な力のことです」。主に 1970 年代から 1

メルケル政権と大型危機

16 年という長期に亘ったメルケル政権だが、今振り返り連邦共和国歴代政権と比べて目立つのは、メルケル首相の在任期間の長さよりも、いかにこの政権が次から次へと国際的、世界的な大型危機に見舞われてきたかという点である。メルケル首相が最初に直面した大型危機は、 2008 年 9 月半ばに経営破綻した米投資銀行リーマン・ブラザーズに端を発する国際金融危機、いわゆる「リーマン・ショック」である。恐慌の波は直ちにドイツにも押し寄せた。 10 月に入った途端、欧州最大の不動産投資銀行であったミュンヘンの Hypo Real Estate が倒産の一歩手前にあることが判明するのである。“ Too big to fall (「大き過ぎて倒産させられない」)”のケースであった。ここが倒産すれば、世界金融システムへの影響が大き過ぎる。従って国が介入して助けざるを得ず、メルケル政権は、連邦が保証することで複数銀行によるコンソーシアムが何百億ユーロという単位のクレジットを発行するよう計らった。これが、この金融危機で国が助けねばならなかったドイツの金融機関の最初のケースとなった。こうして Hypo Real Estate を救うことができたと安心したのも束の間、その直後の 10 月 4 日、パリに出向いていたメルケル首相の携帯電話が鳴る。連邦銀行( Bundesbank )と金融監督局( Bafin )のトップがそれぞれ電話をしてきたのである。救えたと思っていた Hypo Real Estate の負債は、実はクレジット額を軽く超えていたというのだ。おまけに連邦銀行は、 100 ユーロ札と 200 ユーロ札が間もなく不足するという緊急事態を伝えてきた。銀行破綻の危険を察知した大勢の人々が自分の貯蓄を守ろうと銀行に急ぎ、現金を引き出し始めたのである。 ATM に群がる国民たち、という一国の経済が破綻する際の最悪のシナリオが、ドイツでも現実になりかけた瞬間であった。メルケル政権は、すぐに手を打たねばならない事態に直面したのである。   ドラマチックな展開から話を始めたが、この時のメルケル首相の動きは、良い意味でも悪い意味でも伝説になっている。電話で危機が伝えられた翌日の 10 月 5 日、まだ連邦財務省が Hypo Real Estate 倒産回避のためにあたふたしている同じ時、メルケル首

アフガニスタンドラマとドイツの罪

  ( 2021 年 8 月 11 日付記事「アフガニスタン撤退は、われわれが敗北を認めたということ」の続報) 誰もが予想できなかったスピードでタリバーンが首都カブールをも制圧し勝利宣言をした 8 月 15 日の翌日、 8 月 16 日に、ドイツ連邦外務大臣のハイコ・マース氏(ドイツ社会民主党)は次のような声明を発表した。 目下カブール空港から入って来る画像は劇的で、恐ろしいものである。ここ数日の展開は何もかもが極めて苦いもので、アフガニスタンはもちろん、われわれにも長期的な影響を及ぼすであろう。言い繕うことはできない。われわれ全員 -連邦政府、情報機関、国際社会- が、状況を見誤ってしまったのだ。アフガニスタン政府軍がタリバーンを前にこんなにも早く逃亡し降参してしまうとは、われわれも、われわれのパートナーも、そして専門家たちですら予想できなかった。・・・今われわれが目にしなければならない光景、カブール空港の今この時の様子は、非常な痛みを伴ってわれわれ全員の心に迫って来る。・・・これからわれわれは、数多くの根本的な点を問いただしてはそれに答えていかねばならない。だが今は何より火急の問題が一つある。・・・連邦政府としてわれわれは、当地の壊滅的状況からなるべく多くの人間を救出するためにできるすべてのことをやる。われわれは人々の避難や救援活動を大至急開始している。現在すでに、連邦防衛軍の一機がカブールに向かっており、数時間のうちにカブールに到着する予定である。続く二機もすでに途上にある。・・・ マース外相はこの声明の中でドイツ政府も過ちを犯したことを認めているわけであるが、それは、「まさかこんなにもあっさりとタリバーンがアフガニスタン全土を制圧し、統治権を握ってしまうとは考えていなかった」という、アフガニスタン政府の戦力と自立性について過大評価していたことを指している。だがこの時点ですでにドイツの野党とメディアは、マース外相、そして連邦防衛相の アンネグレート・クランプ‐カレンバウアー氏(キリスト教民主同盟)の二人を、この悲惨な結末の主要責任者として吊し上げ始めていた。この二人の責任が厳しく問われたのは、過去 20 年間当地で様々に連邦防衛軍の任務に協力してきたアフガニスタン市民たちをなぜもっと早く脱出させなかったのか、という点である。   野党の緑の党(