メルケル政権16年間の総決算:ドイツはどう変わったか

総選挙まであと一か月を切った今、テレビでも選挙関連番組が増えており、各政党の動き、政治家インタビュー、有権者の意識調査などが盛んに報じられている。一方で今回の国政選挙には「16年間続いたメルケル政権の終わり」という側面もあり、この16年の間にドイツはどう変わったのか、メルケル政権下で改善された点、悪化した点、解決されぬまま次政権に引き継がれる問題は何か、といった点に注目した番組も多く作られている。国連データセンターにはHuman Development Report Officeという部署があり、ここでは毎年国連加盟国のデータを分析しては相互比較し、Human Development指数を出して世界ランキングを作っている。比較の基準項目は三つ― ①平均寿命、②教育年数(国民が職業教育も含めて実際に学校に通った年数の平均)、③経済的豊かさ(国民一人当たりのGDP)であり、2020年のランキングではドイツは189か国中6位であった。(参考:米国17位、日本19位、フランス26位)これは誇れる順位であろう。更にこのランキングの担当責任者によれば、ドイツの強みは、2008年の金融危機を経て一時的でも発展が止まる、あるいは後退した国が多い中で、ドイツだけは折れ線グラフが順調に上昇を続けている点だという。アンゲラ・メルケル氏が連邦首相に就任した2005年と今現在を比べると、実際に多くの数字が改善しており、昨年来のコロナ・ショックをひとまず脇に置くと、一見ドイツはこの16年間全体的に良い発展を遂げてきたように見える。だが、これは表の顔である。国連のデータはあくまでその国の平均値を扱っているに過ぎず、教育年数にしても経済的豊かさにしても国内の格差が拡大しつつあるのが今のドイツで、平均値だけを映す表の顔の裏には暗い現実も隠されているのだ。その現実に光を当てて、本当のところ今ドイツはどういう状態にあるのか、本当の意味でメルケル政権の16年間はドイツ国内をどう変えたのかを浮き彫りにするドキュメンタリー番組が最近放映された。公共テレビ局ARDによるルポルタージュ「焦燥、不満、分裂?(Ungeduldig, unzufrieden, uneins?)」(2021823日放映)がそれである。これは、ドイツが現在抱えている国内の深刻な問題を取り上げて、これまでメルケル政権はこれらの問題にどう取り組みどう失敗したのか、あるいは取り組んでこなかったのかに注目することで、16年間の「メルケル時代」の総決算を試みる番組であった。以下、ここで取り上げられた問題及び現状を紹介する。

 

①子供の貧困:数字は全く改善されず

毎朝朝食を摂れない子供たちにサンドイッチを作って配る、子供のいる貧困家庭に定期的に食糧品を配達する、といった活動を続けるNGOの職員は「世界で最も豊かな国でこういう活動が必要だなんて・・・」と洩らす。このような活動の需要は、この16年間全く変わらず大きいままだという。ドイツの子供の貧困率は2005年に19.5%、2019年には20.5%で、2010年まで減少傾向にあったのがその後また上昇に転じている。GDPも失業率も(コロナの昨年を除けば)この同じ期間毎年改善しているのに、なぜ子供の貧困率は改善されないのかというと、地域による格差が大きいからだ。ドイツで最も貧しいと言われる都市の一人当たり平均可処分所得は最も豊かな都市の2分の1以下でその差はますます開き、それに伴い貧しい都市では子供の3人に一人が貧困状況にあってこの数は増加を続けている。子供が貧困から脱する最も有効な手段は教育であるが、まさにこのような貧困の都市で「学校中退者(Schulabbrecher)」の数が増えているという現実がある。

 

②学校を中退する若者:毎年増加の傾向

ドイツで言う「学校中退者」とは、日本で言うと中学校も卒業していない若者のことである。義務教育を終えていないのでその後の職業教育につけず、職業教育を受けられないので仕事に就けずに完全に社会からドロップアウトしてしまう。このような若者は一生生活保護に頼ることになる上、健康的な生活を送らないので病気になり易く、また犯罪率も高い。結果的に国にとっては大変に金がかかることになる。だからこそ国は、早いうちにこういう若者たちの教育にこそ予算をもっと割くべきなのである。この「学校中退者」の率は2005年には8.2%であったのが2019年には6.6%と、一見改善されているように見える。だが実際には2013年に5.2%にまで下がっていた数字がその後また上昇傾向に転じており、現在はその悪化トレンドの真っただ中にある。中卒の資格もない若者の数は、現在5万人以上に上るという。悪化の原因は2006年にメルケル政権が行った「連邦制改革」にあり、これ以降学校政策は完全に州の管轄となって連邦からの財政援助が無くなった。その結果、財政的に厳しい州は教育に十分な予算をかけられなくなってしまったのである。

 

③男女格差:この項目の世界ランキングではドイツは20位に落ちる

連邦政府の女性率は2005年の35%から2019年には44%、大企業の取締役女性率は2005年の0.2%から2019年には11.6%、大学教授の女性率は2005年の14%から2019年には25%と、女性率に関してはメルケル政権の間にそれなりの改善が見られる。だが男女の所得格差はいまだに男性が女性の18%増と、欧州の国の中でドイツは決して自慢できる状況にはない。この16年の間にメルケル政権は女性支援のための法律をいくつか実現したが(注:必ず子供を託児所に預けられる保障や、上場企業監査役女性率の義務化など)、まだ達成すべきことは数多く、ここで立ち止まってはいけないというのがドイツの状況である。

 

④気候変動対策:「メルケル首相は地球環境の破壊を続けた首相だ」

Fridays for Futureの運動家たちの批判を聞くまでもなく、ドイツの気候変動対策は、そのスピードが遅すぎる。ドイツの一人当たり年間二酸化炭素排出量は2005年に10.6トンだったのが2019年には8.4トンと、わずかしか減っていない。パリ協定の目標に達するためには、この数字は2.7トンにまで減らされねばならないと言われている。「脱石炭」政策にしても、メルケル首相が最初に宣言したのは2007年で当時は大いにもてはやされたのだが、その後連邦政府は結局何もせず、ようやく重い腰を上げ取り組み始めたのは2018年、昨年決まった「2038年までの脱石炭」に対しても「遅すぎる」との批判が各方面から出ている。それでもまだ石炭セクターの方は方針が決まり関係者全員が同じ方向を向き始めたが、目下大きい問題になっているのは農業である。農業保護のために長い間環境対策に踏み込めなかった連邦政府は、今年に入ってようやく絶滅危惧種の保護の一環として「昆虫保護法」を可決した。農薬の使用を大幅に制限する法であるが、直後この法律は農業従事者の怒りを買って、東西統一後最大規模と言われる大きな抗議デモに発展する。農民たちも環境保護の必要性を理解してはいるが、生計を立てている以上、農家の収入に大きな影響を与える政策を立てるならその後も農家が存続できるような枠条件を十分に整えてからにすべきではないか、というのが彼らの主張である。ここでも政府は後手に回った印象が大きく、「ドイツ政府の対応は遅過ぎる、われわれは時間を失い過ぎた、もっと早く始めるべきであった」というのが、環境保護側からの一致した批判である。

 

⑤極右犯罪:大幅な件数増加と警察組織への疑惑

全国の犯罪件数だけに注目すると、2005年の640万件から2020年は530万件と、メルケル政権の間に犯罪は減少している。だが極右によるイデオロギー犯罪の件数は、逆にこの期間に大幅に増加している。2004年に12,500件であったのが、2020年には24,000件とほとんど倍増しているのだ。国内でネオナチによる外国人襲撃が大きな事件となったのは1990年代初頭であるが、その後今世紀に入るやNSU(ナチス地下組織)と呼ばれるテロ集団による、人種差別からの連続殺人事件が起こる。このNSUは何年にも亘ってイスラム系市民を殺し続け最終的に10人の犠牲者が出るのだが、警察は的外れの捜査を続け、最後の犯人が捕まるのに2011年まで待たねばならなかった。この犯罪事件の裁判はもう終わっているのだが、実はこの事件における警察捜査のやり方や憲法擁護庁の動きについては、すべてが明らかになっているわけではない。その後も、警察官による移民系市民の取り調べや暴力が問題になったケースが続き、警察内部の人種差別傾向や警察機能への疑いがドイツ社会の中に芽生えた。昨年、警察組織の構造上の問題を調査するよう求められた連邦内務相が、調査結果として「人種差別が発生するような構造上の欠陥は、警察組織内には認められなかった」と発表したものの、今は、ドイツ社会の中にある人種差別や憎悪犯罪の根っこと並んで、警察自身の右翼体質も危惧されているのである。

 

以上、これらはほとんどが、メルケル政権の16年間を含め過去数十年もの間、連邦政府が真剣に取り組まずに放ってきたと言える問題である。「だから、全体として今ドイツがいい状態にあると言っても、メルケル政権には負のイメージもつきまとうのではないか」と、この番組は問いかけている。「それとも、」とナレーションは続く、「もしかすると私たちは、実際にはドイツという国がうまく行っていることを素直に認められないだけなのだろうか」。ドイツ市民が自分の現在の生活に抱いている満足度を調べると、2004年には東西統一後最低だったのに対し、2019年には歴代最高指数を記録したという。数字自体は明らかな「満足度上昇」を示しているのだ。それなのに当の市民が次々問題点を指摘しては、ドイツ社会の暗黒面を糾弾している。こうして番組ナレーションの問いかけは、更に続くのだ―「もしかすると、私たち市民が不満を持つことそれ自体が、実際にはこの国の発展のエンジンになっているのだろうか」。到達したレベルではまだ満足しない、社会をもっとよくしたい、そしてそのために自分も社会の中で積極的に動き、政治の不足を指摘し、意見の違う人間との対話を求め、議論を続け、社会に良かれと思う活動を続ける。実際にこのようなドイツ市民が何人も紹介されていて、この番組は、過去16年間でもしドイツが良くなったのなら、それはメルケル首相の功績でもメルケル政権の功績でもなく、こういうドイツ市民一人ひとりの努力のおかげなのだということを思わせるものになっていた。 

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