(最後の挨拶)ドイツという国

 20206月から書き始めたこのブログですが、時間的な理由から今回でひとまずお終いにします。(実は今回でこれまで発表した記事が丁度100を数え、偶然ながらキリのいいタイミングとなりました。)「ひとまず」というのは、まだまだ書くことはいくらでもあり、これからのドイツや欧州の動きには変わらず注目し続けるつもりですので、またいつか時間が取れるようになったら再開できるかもしれないということです。これまで定期的にお読み下さった方々には、この場を借りて心からお礼を申し上げます。

 

私はドイツを尊敬できるいい国だと思っています。30数年前に二年だけの滞在を予定して外国人留学生としてドイツにやって来た私が、その後もこの国に留まって就職し家庭を作り、結果的にこの国を自分の「居場所」に決めたきっかけはあくまで個人的事情に過ぎませんでしたが、その後30数年経った今、私が相変わらずドイツ国籍を持たぬ外国人でありながら自分もドイツ社会の一員であり、だから私もこの社会に貢献しなければならないのだと自然に思えるまでになった事実が、ドイツがいい国である証拠だと思うのです。多くの問題と責任を抱えながらこの国が西側先進国の価値 -自由、平等、人権、民主主義、法治体制など- を正面に掲げ続け、またそれを実現している裏には、それぞれの立場からの市民たちの努力があります。政治を厳しく監視して批判の声を上げ、意見の対立が生じることを恐れぬジャーナリストたち、彼らの批判を正面から受け止めて国民の前で自分の言葉で弁明と説明に努める個々の政治家たち、そしてその双方を監督し気に入らなければ声を上げ、あるいは通りに出ていく市民たち。そしてもちろんこのようなすべての動きに、必要とあれば独立した権力としての法のチェックが入るのがドイツです。このドイツの姿こそが法治国家において民主主義が機能する形なのであり、これが持続するためには社会全体が日々それを望み、努力を続けていくことが必要なのだということを、私はドイツで学びました。

 

世代の対立も、政党間の対立も、性別や職業、宗教や出自や居住地に端を発する意見の対立も、互いの自由と権利を認め合い同じ社会の一員としての互いへの敬意を失わない限り、それは結局はドイツ社会を豊かにする良いものなのだという共通の認識が、この国にはあります。意見を対立させることはいいことなのです。対立する者たちが -議論であれ論争であれ、あるいはたとえ口喧嘩になったとしても- 同じ目線に立って言葉を交わせる限りそれはいいことなのであって、言葉を交わせなくなることこそが問題なのです。外国人、特にイスラム系移民やユダヤ教徒に対する暴力事件や無差別テロが起きれば、そのたびに外国人としてこの国に住んでいる私は不安にもなりますし、警戒もします。でもその一方で、自宅の近くでも職場でも、宗教や価値観、人生観を含めた文化的背景が異なる人々が混じり合っているのが当たり前になっているこの国の都会では、日本人である私自身も他者にとっては摩擦の原因になるのです。出自の異なる市民一人ひとりが日常生活の中で衝突や摩擦を起こし、他者と言葉で解決しようと努めながら新しい気づきを得て変化していく。自分の価値観がごく狭い範囲でしか通用しないものであったことに気づいて、少しずつ視野を広げていく。このような日常的な衝突や摩擦は、ドイツ社会がもう一つ良くなる、もう一段階レベルアップするためのプロセスなのだと思います。

 

丁度新政権が作られつつある今、ドイツはまた進む方向を新たに決め直して気候変動やグローバル経済、EUが連帯できる形の模索、ロシア、トルコ、ベラルーシといった価値観が異なる近隣諸国に対する姿勢など、解決すべき大きい課題に取り組んでいくことになります。このような課題はもはや一国だけで対処できるものではなく、これまで以上に欧州という大きい地域での連帯、更にはもっと大きい地球規模の連帯が必要であることをドイツははっきり認識しています。今後新政権がどのような政策プログラムを決定するにせよ、「連帯」という原則はドイツにとって揺るがぬものであり続けると思います。これで私のブログ「アマガエルのドイツ便り」はお終いにしますが、同様にドイツや欧州についてのテーマを取り上げてトーク番組の形で音声配信しているPodcastドイツのメディアから」(パートナーの美濃部遊氏と共に、隔週日曜に配信)は、今後も続けていくつもりでおります。ドイツや欧州へのご関心をお持ちの方々には、今後も是非そちらを聞いて頂ければ幸いです。

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