EUを襲った“ソファ・スキャンダル”

48日、ドイツのいくつかの新聞の見出しに“SofaGate(ソファ・スキャンダル)”の文字が躍った。多くの一般読者には、見出しを見ただけではこの「ソファ」というのが一体何のことやら分からなかったのだが、添えられていた二枚の大きい写真を見た瞬間おおよそ何が起こったのか想像できた、というのがこの事件の特徴である。問題の写真の一枚には、煌びやかな迎賓広間の奥にトルコとEUの旗が飾られ、その旗を前にトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領とEU理事会の長(“EU大統領”と呼ばれるポスト)のシャルル・ミシェル氏がそれぞれ肘掛け椅子に腰を下ろしている、そして同じ写真の手前には、一人茫然と立ちすくんでいるEU委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長の後ろ姿が写っていた。そしてそれに続く二枚目の写真は、引き続き二人の男性が正面中央にどかっと座っている左下、ずっと下手の方の何人掛けもの長いソファの真ん中に、小柄で華奢なフォン・デア・ライエン氏が一人ぽつんと腰掛け、遠くから二人の男性を仰ぎ見ているような構図になっていた。これが“ソファ・スキャンダル”である。46日、EU大統領のミシェル氏とEU委員会委員長のフォン・デア・ライエン氏は揃ってトルコを訪問した。目的はEUとトルコ間の将来の協力関係を強化すべく、エルドアン大統領と様々なプロジェクトについて話合うことにあった。コロナの真っただ中にEUの頂点に立つこの二人が揃ってトルコを訪問するというのは、EUからすれば大変に大きい歩み寄りの姿勢をトルコに見せたことになる。この写真は、その二人を迎え入れたエルドアン大統領が、メディア用に公に撮影させた写真なのである。ここにこめられたトルコ側のメッセージは明らかで、エルドアン大統領が自分と同等に扱うのはお客人の中の男性ミシェル氏だけ。女性のフォン・デア・ライエン氏は隅に引っ込んでいて下さい、というものだ。控えめに言っても女性軽視、EUから見れば明らかな女性蔑視政策や発言で有名なトルコのエルドアン大統領のやり方としては今更驚くことではないのだろうが、二人のVIPを客人として迎え入れるのに、最初から正面の客用椅子を一脚しか用意しておかなかったというのは、何をかいわんやである。ミシェル氏がエルドアン大統領に勧められるままに正面の椅子に腰かけた後、後ろに続いていたフォン・デア・ライエン氏は自分が座る椅子がないのに気づいて、思わず「え・・・?」と声を漏らしたことが伝えられている。これが最初の写真の場面なのである。

 

このニュースはもちろんEU内を駆け巡り、EU行政府の長であるフォン・デア・ライエン氏がトルコでこんな侮辱的な扱いを受けたことに対する憤りが噴出した。エルドアン氏があからさまに示した、EU初の女性委員長を自分と同等の立場の人物とみなすつもりがないという姿勢に対する抗議はもちろんであるが、それ以上に非難を浴びたのは、EUから同行したミシェル氏である。ミシェル氏のポスト、“EU大統領”というポジションは、EU理事会の長に与えられるものだ。EU理事会は欧州議会とは異なり、27の加盟国それぞれからの代表者によって成り立つ。従ってその理事会の長は27か国を代表する人間であるとみなされ、 そのために“EU大統領”とも呼ばれるのである。だがEU政府のトップであるEU委員会委員長のポストと、このEU理事会の長の間に、本来位階の上下はない。それをトルコ側は表向き、「大統領の方が上であろう」という勝手な解釈をして男性であるミシェル氏を持ち上げ、全く同等の立場で訪れていたフォン・デア・ライエン氏を、明らかに女性であるという理由から隅に追いやったのである。これに対してミシェル氏がなぜその場で抗議しなかったのか、という批判が主にソーシャルネットワーク上でミシェル氏に集中した。これに対してミシェル氏は、トルコにはトルコ独特の厳しい外交儀礼ルール(プロトコル)があり外から口出しはできず、またこの広間の席位置についてはあらかじめ知る機会が全くなかったのだと弁解している。だがそこに明らかな上下関係がない限りレディ・ファーストが徹底している欧州人であるなら、椅子を勧められた時点でミシェル氏はまずフォン・デア・ライエン氏にその椅子を譲った上で、エルドアン氏に三脚目の椅子を所望すべきであった、というのが大方の意見であり、確かにこの場合それが常識的な振舞であろう。なぜそうしなかったのかと問い詰められたミシェル氏は、今度は、これから重要な内容を話し合うというその直前に外面的なことで揉めたくなかったのだと説明し、「私たちの訪問の目的は、あくまで話し合いの内容にあったのですから」と述べている。因みにこのような目に遭ったフォン・デア・ライエン氏自身この点ではミシェル氏と同様、「対談の内容の方が重要であったため、この扱いに黙って甘んじることにした」とコメントしている。だが同時にフォン・デア・ライエン氏は、今後二度とこのようなことが起らぬよう訪問を準備した職員に注意したとも伝えられている。一方でEUから批判されたトルコ側は、「われわれは国際基準に従ってEU側の意見も聞いた上で席順を決めたのであり、それ以外こちらには全く何の意図もなく、外から非難される筋合いはない」と突っぱねたらしい。

 

EUとトルコの間には問題が山積みしている。今回の訪問も、表向きは経済における協力関係強化が重要テーマの一つに掲げられ、、中でも、貿易相手国としてお互いを必要としている両者が共に利益を得られるよう関税同盟の拡大などが話の中心になったようだが、話合うべき差し迫った問題は他にも色々あった。

·        難民問題:EUにとって、2016年にトルコとの間で結んだ協定の続行は、主にシリアからの難民問題に対処するに不可欠である。その内容は、EUが多額の支援金を拠出する代わりにトルコは国内に入ってきたシリア難民を勝手にEUに送り込まず、EUがルールに則って入国させるまでは彼らをトルコ側の難民キャンプに留め置く、というものだ。EUの動きが遅いこともあってトルコ側はこのところ不満を募らせており、この協定内容が今後責任をもって守られるかどうか疑わしいところである。

·        東地中海問題:東地中海の海底油田と天然ガス田をめぐるトルコ・ギリシャ間の緊張関係がこれ以上エスカレートするようなことがないよう、両者の冷静な話し合いが求められている。(これについての詳細は、202099日付記事「この喧嘩の仲裁は、さすがのドイツにも荷が重い」参照)

·        エルドアン政権自身の問題:トルコ政府の人権の扱いや法治国家体制についての考え方が、EUの価値と相容れない。先日トルコ政府が決めたイスタンブール条約離脱(これについての詳細は、2021328日付記事「家族観の違いが行き着く先」参照)にも、EUは大いに危惧を抱いている。

もともとトルコはEU加盟を望んでおり、前世紀末に加盟候補国の資格を得た後公式の加盟交渉は2005年に開始されたのだが、その後様々な事件が起こるたびに交渉は難航してきた。一部のEU加盟国の中にはトルコが加盟することへの根強い反対があり、ドイツにしてもメルケル政権は乗り気ではなく、EUはどっちつかずの交渉をだらだらと続けてきたような印象がある。トルコの加盟を妨げている最大の問題は、この国がEUが前面に掲げている“欧州の価値”- 民主主義、法治国家、言論の自由をはじめとする基本的人権擁護 - に賛同し実行することが期待できない状況にあることだ。特にここ数年は、クルド人への攻撃や反体制ジャーナリストの逮捕・拘留をはじめとし、EUから見るととても受け入れられない行動が繰り返されている。だがその一方でトルコは、経済のみならず、安全保障や難民政策、対テロ戦略などEUにとっては地政学上あまりに重要な役割を担う国であるだけに、関係を悪化させたままで置くことはできず、それがEUが定期的にエルドアン大統領と話し合いの場を持とうとする理由になっているのである。

 

だが実は、EUトップの二人が今この時点で「アンカラ詣で(Pilgerfahrt nach Ankara)」をすることには、EU内部でも反対が多かった。ドイツの野党政治家たちからも、「今EUトップが特別なパートナーシップを携えてトルコに出向くなどということをするなら、完全に誤ったシグナルを送ることになる」、「EUトップがアンカラまで足を運びトルコ政府の宣伝になるような写真を提供すれば、まるでEUがエルドアン大統領の政策に報いようとするかのように見えてしまうが、今はそんな時ではないだろう」、「トルコ国内での人権侵害がますますひどくなり、国が独裁体制を強化しつつあることを鑑みると、EUが今親し気に接近して経済での協力関係を申し出るなどというのはあまりに無責任で根本から間違った路線だ」など、批判が相次いでいた。一体この訪問の成果はあったのか、これについてはフォン・デア・ライエン氏は、「われわれは今一本の道の出発点に立ったところです。今後EUとトルコがどこまで肩を並べて歩み続けることができるかは、今後何か月もの進展を見守るうちに明らかになるでしょう」というような発言をしている。EUとトルコ、両者の間で発生している様々な問題やトラブルの解決もさることながら、今回EUが毅然とした態度でトルコに通告したかった最も大事な点は、エルドアン政府が行っているトルコ国民に対する基本的人権の侵害をEUは決して受け入れないという点にあったはずだ。それが、女性差別からフォン・デア・ライエン氏の席すら用意されていなかった事態をEU側が大人しく受け入れるところから両者の対談が始まったのであれば、その場面を見せられた側としては「え、最初の一歩から完全に相手の言うなりなの?」と思わざるを得ない。トルコ、恐るべし、である。 

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