米国とドイツ:恩義と反発、熱狂と失望の歴史-①

まともなコミュニケーションすら成立しなかった4年間のトランプ大統領時代が終わり、新大統領バイデン氏のもとで米国は約束通り国際協力舞台に戻ってきた。とはいえ今はどの国も火急の問題である自国のコロナ対策に大わらわで外交に目を向けるゆとりはなく、米国とドイツ、EUのパートナーシップにしても今後どういう展開を見るのかまだ判断できる状況ではない。それでもバイデン氏は大統領就任と同時に早速国内のコロナ対策に本腰を入れ、その後の米国の驚くべき予防注射普及スピードなど、欧州から見てもバイデン大統領の頑張りと過去4年間からの方向転換ははっきり評価でき、一度は文字通り「地に堕ちた」米国に寄せるドイツ人の信頼も現在回復中である。そんな中、413日に公共テレビZDF局が放映したドキュメンタリー番組“われわれドイツ人とアメリカ合衆国(Wir Deutschen und die USA)”は、戦後75年間、米国とドイツが辿ってきたパートナーとしての道のりを振り返り、両者の関係の推移を追った番組であった。興味深かったのは、全編に亘って外面的な事件よりも、その時々でドイツ国民が米国に抱いてきた感情に焦点が当てられていた点である。ドイツで作られるこの種のドキュメンタリー番組ではなるべく多くの時代の証言者を招き、彼らに発言させるのが常だが、今回も例外ではなく、政治家、学者、ジャーナリストたちが入れ替わり立ち替わりコメントしていた。その中の一人、ジャーナリストのクリストフ・フォン・マーシャル氏の言葉、「(米国との関係においては)ドイツ人は自分たちで思いたがっているほど理性的(rational)ではない」は、中でも特に印象的であった。というわけで今回は、次回と合わせ二回に亘って、この番組が伝える米国に対するドイツ人の「心情」を紹介したい。

 

戦後すぐ、戦勝国である米国が敗戦国ドイツに行ったことは、日本に対してと同じである。徹底的な民主化を進め、経済を復興させ、そして何より西側陣営に引き込むことだ。だがドイツと日本の状況では異なる点が二つあった。一つは、米国がナチス・ドイツの蛮行の跡をはっきり目にしたこと、そしてもう一つは、ドイツにはソ連の圧力もかかっていたことである。強制収容所を解放した際に目撃した惨状は米国に、こんな非人間的犯罪をやってのけるドイツという国にどうやったら民主化を根付かせられるのか、という大きな問いを投げかけたという。実際に占領当初、米軍司令部は自国の末端の兵士に至るまで、できる限りドイツ市民に接触しないようにという指令を出したとのことである。ドイツでは一般市民もどれほど残虐で危険か分かったものではないから注意せよということだが、一方でドイツ市民の方も占領軍への恐怖と不安が先立ち、当初はお互いに避けあっていたらしい。だがそれも長くは続かず、これが米国人の愛すべき気質であろう、若い米兵たちはその開けっぴろげで人好きのする明るさでまずは西ドイツの子供たちと仲良くなり、その後若いドイツ女性とのカップルが次々誕生することになる。米司令部も無駄だと分かったらしく、“接触禁止令”はすぐに引っ込めた。人懐っこい米兵たちに西ドイツ市民側もすぐに惹きつけられ、戦後一、二年で両国民の間にほのかな友情のような感情が芽生えたということだ。そして、西ドイツ人が米国に寄せる信頼を更に強化する事件が起こったのは1948年である。米国のマーシャルプランにより進められる西ドイツ経済復興には、大戦で価値が下落した帝国マルクに替わる新通貨の発行が必要だと考えた米国は、19486月、西側占領区にドイツマルクを導入する。いわゆる通貨改革である。こうして西ベルリンを含む西側での通貨交換は速やかに行われ、古い帝国マルクは完全に価値を失う。そして、この西側の一方的な改革によって古い通貨を使っていた東側経済が打撃を受けたことに腹を立てたソ連が、この直後‟ベルリン封鎖”を実行するのである。交通や電力が一切遮断された西ベルリンはこの措置により文字通り‟陸の孤島”となって孤立し、当時すでに200万人を超えていた西ベルリン市民は、物資の流通経路を絶たれライフラインを失う。だがこの時、死活問題に直面した西ベルリンに、米トルーマン大統領は直ちに救いの手を差し伸べる。米空軍による名高い“大空輸作戦”である。ドイツでは‟空の橋(Luftbrücke)”と呼ばれるこの作戦は、西ベルリン市民に食糧を中心とした生活必需品を毎日空から届けるという驚くべき試みで、西ベルリンのテンペルホーフ空港には3分に一機の頻度で米軍輸送機が着陸、30分以内に荷を下ろして離陸、こうして一日に100機以上が離着陸を繰り返したという。時間の余裕がないことから事故も発生し、70人以上もの英米パイロットが命を落としたが、一年近く続いたこの作戦は見事に西ベルリン市民を救い、ソ連は封鎖を断念する。この‟空の橋”作戦は、ドイツでは今でも好んでドラマや映画の題材に取り上げられる有名な史実だが、これを実際に体験した世代のドイツ人は、この、命を賭けてくれた勇敢な英米兵たち、そして自分たちが最も助けを必要としていた時に守ってくれた米国に深い恩義を感じ、その後何があっても米国への忠誠を誓ったという。この姿勢は後日、西ドイツ人の中の世代間の断絶を生むことにもなるのだが、この時をきっかけに米国は西ドイツにとって、友人というばかりではなく保護者とも認識されたのである。

 

こうして米国への恩義と信頼を深めた西ドイツは、アデナウアー首相のもとで自分たちも軍隊(Bundeswehr 「連邦防衛軍」)を持ちNATOに加盟して米国の同盟国となることを、当時のアイゼンハワー米大統領に提案する。東西対立が深まる中、欧州に強力な同盟国を必要としていた米国にとってはこの申し出は願うところであり、1955年西ドイツは再軍備を実現してNATO加盟を果たす。そしてこれをもって西ドイツは、はっきり西側陣営の一員となるのである。その間にもマーシャルプランのおかげで西ドイツの経済は急成長を遂げ、一方で米国も欧州に優良投資先と輸出先を獲得することになった。西ドイツには‟American Way of Life”が浸透し豊かな米国製品が溢れるのみならず、西ドイツ市民はこの頃から米国ポップカルチャーの洗礼を受けるのである。東西ドイツの経済格差はこうして大きく開いていき、まだ往来が自由であったベルリンでは東側から西側に逃れる市民が増え、19618月、この市民の流出を危惧したソ連によって東西ベルリンの通行が遮断され壁が築かれる。これをもって東西ベルリンははっきり断絶し、西ベルリンは再び“陸の孤島”という不安な立場に置かれることになるのである。この年に米大統領に就任していたケネディ氏は、この時ソ連との正面衝突を避けるために壁の建設を黙認したが、これ以降米ソの軍拡競争は加速する。両者の核兵器開発に拍車がかかるが、ワルシャワ条約機構が侵攻を決めればドイツは真っ先に爆撃目標となり、米ソ両側で核兵器を使用するならドイツは東西ともにひとたまりもなく破壊され消滅するであろう- この恐怖に怯えていた‟陸の孤島”西ベルリン市民を、ケネディ大統領は19636月に訪問する。この時の西ベルリン市民の熱狂ぶりは、ドイツではもはや伝説になっている。ケネディ大統領を歓迎しようと集まった市民は実に40万人と言われ、それは世界的ロックスターすら顔負けの歓迎ぶりであった。そしてこの時ケネディ大統領が広場に作られた仮設舞台に上がって行った演説もまた、ドイツ人には伝説となっている。「どこで生きていようとも、自由な人間は全員がベルリン市民だ。だから私も自由な人間として誇らかに告げよう、『私はベルリン市民である。』」この最後の「私はベルリン市民である(Ich bin ein Berliner)」という一文をケネディ氏はドイツ語で言い、集まった西ベルリン市民はこれに感激し熱狂したのである。ケネディ大統領が自らを自分たち西ベルリン市民に重ねたことに感激したのみならず、彼らはこの不安な時代に、西ドイツ、西ベルリンが米国に守られているという確かな安心感を得たのだと、この番組では解説していた。後にも先にもケネディ氏ほどドイツで尊敬された米大統領はおらず、またこの日ほど西ドイツ人が米国を身近に感じた時はなかった、ということだ。だが、この半年後にケネディ大統領は暗殺される。

その後マーティン・ルーサー・キング牧師の公民権運動から明らかになる黒人差別、そして泥沼化するベトナム戦争と、米国の暗部をドイツ人も知るようになる。特にベトナム戦争に反対を叫ぶ若者たちの運動は、世界のどこでもと同様、西ドイツでも大きく広がっていった。緑の党の政治家で、緑の党が連立政権に参加していた1998年から2005年まで連邦外務大臣を務めたヨシュカ・フィッシャー氏は、自身、若い頃は数々の反体制運動に参加していたことで有名だが、ベトナム戦争については次のように語っている― 「ベトナム戦争は初めてテレビ画面で報道された戦争であり、そこに映し出された戦争の悲惨は私たちの世代にとってなんともショッキングであった。ベトナム戦争は西ドイツ人に、米国についてのこれまでとは全く違う視点を拓いたのである。」1960年代後半から1970年代半ばまで西ドイツの若者たちは、自分たちの親世代が抱いていた米国への恩義や忠誠心から離れ、反戦運動を中心に米国への反発を強めるわけだが、冒頭でも引用したジャーナリストのフォン・マーシャル氏は、米国に反対するにも西ドイツの若者は、米国の若者の反対運動を模範にしたことを指摘している。つまり西ドイツの若者の反米運動の裏には米国発の反対運動があり、米国の若者たちとの連帯があるというのである。「ドイツで始まる反米運動の基には、いつも米国で始まった反政府運動があった」とフォン・マーシャル氏は言うが、確かに昨年の‟Black Lives Matter”運動も米国発の運動がただちにドイツに広まったのであるから、このパターンは現在に至るまで続いているわけである。

(次回「米国とドイツ:恩義と反発、熱狂と失望の歴史-②」に続く) 

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