「社会はどれだけ多くのアイデンティティを許容できるのか」

 前回このブログで、政権与党CDU/CSU(キリスト教民主同盟・社会同盟)の“マスク・スキャンダル”について報告したが、ほぼ同時期に、CDU/CSUと連立して政権を取っているもう片方の与党SPD(ドイツ社会民主党)内部でも、由々しき問題が持ち上がった。こちらはスキャンダルと呼ぶような不祥事ではないのだが、選挙を前に党内のコミュニケーション不足、議論不足を世間に晒すような事件が持ち上がったのである。CDU/CSUのように「悪いことをした奴」が見つかってその処分に大わらわという派手な話ではないものの、個人的には“マスク・スキャンダル”よりこのSPDの内輪揉めニュースの方に関心を引かれたのは、ここで問題になったテーマが、まさにドイツが今抱えている一つの大きい社会問題の核心を突いたものだったからである。

 

きっかけとなったのは、SPDの重鎮の一人で、かつてSPDが第一党として政権を握っていた時代(1998年~2005年)には連邦議会議長という、ドイツでは“民主主義の番人”とも呼ばれる高い地位についていた現在77歳の政治家ヴォルフガング・ティールゼ氏が、222日付で全国新聞Frankfurter Allgemeine Zeitung に寄稿した意見文であった。その論考の標題が、このブログのタイトルにも借りた文章「社会はどれだけ多くのアイデンティティを許容できるのか」である。この中でティールゼ氏は、目下両極端に走っているドイツの“アイデンティティ政策(Identitätspolitik)”を批判している。いわく、急進右派の“アイデンティティ政策”は排斥、憎悪、暴力に走り、急進左派による“アイデンティティ政策”は“キャンセル・カルチャー(Cancel Culture)”に向かう、というのである。“キャンセル・カルチャー”とは、個人や団体、企業などの発言や行動の一側面だけを捉えて議論をすっ飛ばし、即、断罪・糾弾し、攻撃やボイコット運動に走る現代の風潮のことだ。この裏にソーシャルネットワークの普及があることは言うまでもない。“アイデンティティ政策”というのは、社会を構成している特定の人間グループの要望に光を当て、そのグループに対する偏見や差別を無くしたり社会的地位向上に努めたりする政策のことを指すが、そもそもある人間(自分自身を含めて)がどのグループに帰属するかを決める要因は何かについて、まずティールゼ氏はこの論考の冒頭で大変分かり易い説明をしている― 

「昔は宗教(信条)が、その人間が帰属するグループを決めていた。その後は宗教からイデオロギーに替わった。そして今は、“アイデンティティ”という概念がこの役割を引き受けたのである。ここで思い出すべきは、過去にさんざん宗教やイデオロギーが、激しく、時に血みどろの争いを引き起こしてきたことである。今“アイデンティティ”という別の概念のもとで、この歴史が繰り返されねばならないのか。・・・」

ティールゼ氏がここで問題視したのは、自分の政党SPDの中で目立つ急進左派の動きであり、批判は特に党内にある人権運動団体 SPDqueer”に向けられた。“SPDqueer”というグループ名称は通称で、正式には“容認と平等のためのSPDの運動グループ”と名付けられているが、通称の queer(「クィア」)”の方がこの団体の目的を明らかにしている。“queer”は「風変わりな」という意味の英語であるが、今や世界で性的マイノリティの総称として使われている語である。このSPDの運動団体は、もともとは同性愛者の権利と擁護を目的に活動していたのだが、ここ数年は通称に“queer”を使って、同性愛者のみならずすべての性的マイノリティの権利を主張する運動団体になっている。ティールゼ氏は今回、自分の政党の中のこの団体を念頭に置いて、「これらのマイノリティの過激さ」を危険視する意見を発表したのである。マイノリティが自分たち固有の利益を社会全体の安寧より優先させるなら社会の結束は崩壊する、という脈絡で、ティールゼ氏は次のように述べている―

「このような(マイノリティの)要求の過激さは、(社会を結束させるより)むしろ社会を分裂させることになると思う。彼らのやり方は今や明々白々で、『自分は差別されていると感じている』『自分は被害者だと感じている』と言った人間は、その場でもう正しいとみなされるのだ。だが啓蒙主義以来のドイツの伝統では、自分がそう感じるという個人的、主観的感情は問題にならず、理性的、客観的に自分の意見を論拠づけることが大事なのだ。そうして初めて我々は共通の基盤を得、議論ができる場が生まれるのであるから。・・・それがなければ『ティールゼは、どうせ白人でヘテロで旧世代の男だ。あいつの意見はもう分かっている』となり、自分とは異なる意見の持ち主がどういう論拠を持ち、どんな経験に基づいてどんな提案をしようとしているのか、耳を傾けることさえしなくなる。・・・(議論に至らぬまま)その人間の“アイデンティティ”によって、もう答えは出されているのである。」

 

続いてティールゼ氏は、現在ドイツ社会に広がりつつあるドイツ語の変化、人間を表す単語のジェンダーに留意し、性的マイノリティを含めて全員を同等に扱おうとする新たな表現法(これについての詳細は、2021223日付記事「ドイツ語は性差別の言葉」参照)をも、徹底的に批判している。もっとも氏がここで批判しているのは言葉の変化自体ではなく、ともすればそれを全員に押し付けようとする大学や会社のやり方だ。今や大学の研究室、メディア各社、政党、民間企業にも、ジェンダーに関する表現方法で内輪のルールを作り、所属員全員にそれを義務付けるケースが増えているが、言葉をその自然な変化に任せるのではなく、上から変えるよう指示し、その指示に従わない人間は罰せられるというやり方は、社会を結束させるどころか逆に分裂させる、と氏は言う。新聞に掲載されたティールゼ氏のこの論考はすぐにソーシャルネットワーク上で炎上し、氏はただちに「差別主義者」の烙印を押されることになった。まさに氏自身が危惧して書いた筋書き通りの展開を見たのだ。そして、SPD自身の中でもこの氏の発言をめぐって賛否両論の激しい論争が始まる。中でも、近づく選挙を意識したSPDの党首と副党首が、実名は出さないまでも明らかにティールゼ氏を指して言った「党内の恥ずべき反動的な動き」という非難の言葉がクローズアップされ、国民の知るところとなる。その後、党首たちからのこの非難を、SPDを離党せよと党中枢から勧告されたと受け止めたティールゼ氏が、「党を抜けろというのであれば、はっきり公にそう告げてくれ」と党首に迫る一幕にまで話は発展した。だが、SPD内の他の重鎮政治家たちからの援護射撃もあり結局ティールゼ氏はSPDに留まることになって、この事件は表面的には鎮火する。本来なら、党内からこのような重要な問題提起がなされたなら、政党として議論の場を設け、両陣営の代表者を招いて徹底的に議論させてその内容を公開する、というのが正しいやり方なのに― というSPD中枢への批判だけが、今新聞紙上ではくすぶっている。

 

SPD内部から浮上した今回の論争を聞いていて、思い出したことがある。10年以上前、2010103日のドイツ統一記念祝典で、当時連邦大統領であったクリスティアン・ヴルフ氏が演説の中で述べ、あっという間に国中に知れ渡った一文「イスラム教も、今やドイツの一部なのです」である。この文章は言われた直後から大変に物議を醸し、特にヴルフ氏自身の保守政党CDU/CSU(キリスト教民主同盟・社会同盟)からは激しい批判を受けた。2010年当時、ドイツに住むイスラム教徒は320万~350万人(人口の45%)と見積もられていたが、世界で頻発していたイスラムテロのせいでドイツ人が彼らに抱く反感や偏見が増長しており、そんな中、社会を一つにまとめ上げようという意図があっての大統領の発言であった。だがこの発言は、ドイツ人ではない私が聞いてもすぐに違和感を覚えたのであるから、たとえイスラムへの偏見がなかったとしても、多くのドイツ人には受け入れ難いものであったろう。その後2012年にヴルフ氏と交代して連邦大統領に就任したヨアヒム・ガウク氏は、早くも就任直後に「貴方もヴルフ前大統領と同じように考えていらっしゃいますか」と聞かれ、はっきり否定した。「私なら、『ドイツに住んでいるイスラム教徒もドイツ社会の一員だ』と表現したい。一つの宗教が国に帰属するものかどうかという問題は、とても一文で定義できるほど簡単なものではない」と、当時ガウク氏はかわしている。この時は宗教がテーマであったが、やはり今回ティールゼ氏が提起した問い、「社会はどれだけ多くのアイデンティティを許容できるのか」と無関係ではないであろう。マイノリティの数がある程度増え声が大きくなれば、そのマイノリティは自動的に社会に公認されるべきなのであろうか。2021年の現在、ドイツに定住しているイスラム教徒は500万人近いと言われ、この10年間で更に増えているが、数が増えた分イスラム教は当時よりももっと「ドイツの一部」とみなされるべきなのであろうか。いや、これは数の問題ではないはずだ。ティールゼ氏は、問題の論考の中で次のように続けている―

「どこにいても民族、性別、性的指向というアイデンティティが問われ、人種差別やジェンダー差別をめぐる議論はますます激しく攻撃的になっている。・・・このような摩擦は、多様化する社会にあってはどうしても避けられぬものであるにしても、これは混乱を招く対立、先の見えぬ漠然とした対立でもある。保守的慣習をめぐる攻防戦の激しさ、アイデンティティの要求の過激さを前にすると、次のように問わざるを得ない―“アイデンティティ政策”は、どこまでなら社会の多様性を強化するのか、そしてどこから社会の分裂を引き起こすのか。原則的に言うなら、ドイツでも増えている民族、文化、宗教、世界観の違いから生まれる多様性は、決してそれ自体が楽園なのではなく、争いと葛藤のタネを持ったものだ。多様性が平和に共存できるためには、ただばらばらに存在するだけでは駄目で・・・そこには根本的な共通因子がなくてはならない。もちろん共通の言語はその一つであるが、加えて法や正義の理解も同じでなくてはならないのである。・・・」

ここで指摘されているのはもはや、マイノリティを許容する・しない、差別する・しないの問題ではないように思える。一体一つの社会、一つの国を結束させているものは何なのかという、果てしない問いなのだ。

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