世界を変えた人

ジョン・レノンの名曲“イマジン(Imagine)”にも匹敵するぐらい1980年代半ばに若者たちの心を捉え、世界的に有名になったドイツの反戦ポップソングがある。ネナ(Nena)という女性ボーカルを中心にしたバンドが歌った“99個の風船(99 Luftballons)”だが、日本でも一定世代以上には知っている人が多いであろう。核戦争の危機と危惧を寓話的なストーリーに見立てて歌ったこの“99個の風船”が登場した1983年は、冷戦の最後の段階で米ソの軍拡競争がエスカレートしていた時代であり、この年当時の西ドイツ連邦議会も、国民の過半数の反対を押して米国の中距離核ミサイル配備を決めた。ソ連に対抗すべく、米国製核ミサイルを西欧に配置しようという1979年末のNATOの決定に従ったのである。こうして1980年代に入ってすぐの数年間、西欧のあちこちの都市では市民たちによる大規模な平和運動が繰り広げられ、西ドイツでも当時の首都ボンを中心に市民の抗議運動が全国に広がっていった。“99個の風船”が大ヒットしたのはこの時代であった。今この歌を聞いて私自身が想起するのは、ソ連で最初で最後の大統領となったミハイル・ゴルバチョフ氏である。1985年、それまでのソ連の指導者にはなかった若々しく明るいオーラに包まれてソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフ氏は、“ペレストロイカ(再建)”、“グラスノスチ(情報公開)”といったロシア語と共に、当時の日本でも大きな驚きと期待を持って受け入れられたことをよく覚えている。冷戦を終わりにすること、ソ連を自由な国に生まれ変わらせることを目標に、ゴルバチョフ氏はそれまで“鉄のカーテン”の向こう側に隠されていたソ連の姿を西側諸国の目の前に次々“公開”していったのである。またその逆にゴルバチョフ氏は、ソ連市民にも西側文化に触れる機会を与えた。欧米からロックスターを招いて1989年夏にモスクワで開かれたソ連初のロックフェスティバル“Moscow Music Peace Festival”には、26万人ものソ連市民が集まったと言われている。出演したドイツのロックバンド“スコーピオンズ(Scorpions)”がソ連の聴衆を前にした感動から作った名曲“変化の風(Wind of Change)”は、その後ゴルバチョフ氏が成し遂げた冷戦の終結と東西ドイツの統一までを象徴する歌となった。自分の望みや意見のままに行動できる自由を求める人間への理解を示し、自ら欧米に歩み寄っていったこのソ連の新リーダーは、西側諸国には価値を共有する人間として受け入れられどこでも歓迎された。だがゴルバチョフ氏が最も敬愛され、感謝されているのはここドイツであろう。223日、ドイツの公共テレビZDF局は、間もなく90歳の誕生日を迎えるゴルバチョフ氏を祝うドキュメンタリー番組“ああ、ゴルバチョフ!-世界を変えた同志(Mensch Gorbatschow! – Der Genosse, der die Welt veränderte)”を放映した。時々バックに流れるのはまさに“イマジン”や“99個の風船”であり、1980年代後半への懐かしさもあって、このドキュメンタリー番組に私はすぐ引き込まれた。

 

「忘れられぬ政治界のスターだった」、「世界の希望を一身に集めたリーダーだった」、「欧州と世界に新しい顔を与えた英雄だった」といった賞賛の言葉が、当時ゴルバチョフ氏と関わったことのあるドイツの政治家やジャーナリストたちの口から次々出てくる。その一方で、今のロシア市民の口からは、「ソ連と社会主義を破壊した」、「ソ連の利益より、自分の名前を歴史に残す方を優先させた」、「ゴルバチョフ氏から始まったロシアの1990年前後は、食料が手に入らないみじめな時代だった」、「今思うと一体われわれに何かいいものをもたらしてくれたのであろうか」といった批判や非難の言葉が繰り出される。今ドイツを訪れる若いロシア市民たちは、ドイツ人がゴルバチョフ氏を口々に褒めたたえることに驚き、自分の親世代から聞く氏の像とあまりにも食い違うことを不審に思う、と述べる。ドイツ人がここまでゴルバチョフ氏に入れ込むのは、氏がいなければドイツの東西統一が決して実現しなかったからだ。1989年、119日にベルリンの壁が崩壊する一月前の107日、東独は首都東ベルリンで建国40年の記念祝典を開催し、ゴルバチョフ氏も国外からの来賓としてこれに出席していた。東独ではこの年、すでに9月頃から大都市ライプチヒを中心に大勢の市民が自由と民主化を求める反体制デモを展開していたが、この祝典パレードの最中にも会場近くでデモが発生し、デモ隊の中から「ゴルビー(注:ゴルバチョフ氏の愛称)、助けてくれ!」の叫びが続いた。この時、当時東独で一党独裁体制を敷いていたSED(ドイツ社会主義統一党)のホーネッカー書記長がすぐにデモ隊鎮圧に乗り出さなかったのは、ゴルバチョフ氏が黙って市民デモを静観していたからであった。この日ゴルバチョフ氏は、自分がこれまで繰り返してきた数々の忠告にもかかわらず現実を見つめて改革をしようとしないホーネッカー氏を見限り、SEDの幹部たちにホーネッカー氏を退陣させるよう促したと言われている。この祝典の翌々日にライプチヒでは、7万人もの市民たちによる東独改革を求めるデモ行進が行われるが、この時も東独政府は弾圧することができなかった。従来であれば東側諸国でこのような市民デモが発生するや直ちに武力介入してきたソ連が、ゴルバチョフ氏の下では沈黙を守ったからである。こうして東独国家はこの一か月後に、市民たちによる平和的な、だが大きな、下からの力に突き動かされて崩壊するが、その後東独がスムーズに西独に併合され、統一ドイツとして西欧に組み込まれることを可能にしたのは、やはりゴルバチョフ氏であった。ゴルバチョフ氏のソ連はドイツからの経済支援と引き換えに、東独が統一後NATOに所属することも、また、統一ドイツが内政においても外交においても完全に主権を保つことも認めたのである。だからドイツでは、ドイツ統一が無血で実現したのは東独市民とゴルバチョフ氏のおかげであると考えられているのだ。

 

だがソ連自身はその後崩壊への道筋を辿ることになる。「より良い社会主義」の実現を目指していたゴルバチョフ氏は、一党独裁を止め、国民に言論の自由を認めると同時に、巨額な軍事費のせいで国民が必要とする消費財が不足している状態を改善するためにも、冷戦の終結に向けて動き出す。1985年の米ソ首脳会談を経て、1987年には当時の米大統領レーガン氏と中距離核戦力全廃条約に署名。1989年には、当時のブッシュ(シニア)米大統領との初めてのプレス会議上で、「冷戦の終結」を宣言した。だがその一方で、ソ連国内では国民の不満が嵩じていた。ドイツの政治家たちの解説によれば、ゴルバチョフ氏の失敗は、ソ連の経済改革ができなかったことにあるという。軍事費を減らして計画経済を緩和し、店舗の棚を国民の必需品で一杯にすることを目標に掲げたものの、国の経済の根幹となる中小企業を育てることができず、提供した資本は“オリガルヒ”と呼ばれる政治的影響力を持つ新興財閥が独占することになった。こうしてソ連の市民たちは“コネ”がなくては日常の買い物もできないほどの商品不足に悩まされることになる。ゴルバチョフ氏が国内での求心力回復の必要に迫られて、ソ連に大統領制を導入し自らソ連初の大統領に就任した年と、冷戦を終結させた功績でノーベル平和賞を受賞した年が1990年と一致していることは、大変に象徴的だ。欧米を中心にした国外での評価と、危うい立場に置かれた国内での評価が大きく食い違っているのである。その翌年、1991年夏に起こったソ連共産党保守派によるクーデターは、ソ連の解体を目指してロシア共和国の初代大統領に就任していたボリス・エリツィン氏とモスクワ市民が中心となった徹底抗戦に遭い挫折し、これをきっかけにソ連共産党への国民の信頼は失墜する。そしてこの事件は皮肉にも、クーデター側に敵視されたゴルバチョフ氏の存在をも更に無用とすることになる。間もなくこの機を捉えたエリツィン氏にゴルバチョフ氏は実権を奪われることになり、エリツィン氏のロシア共和国がソ連からの脱退を宣言したことでソ連は解体され、崩れ去る。この年の末ゴルバチョフ氏は、すでに消滅したソ連という国の最初で最後の大統領を辞任する書類に署名させられた。ドイツ国民には悲しい場面であった。ソ連をもっと自由で良い国にしようと闘ったゴルバチョフ氏の6年間が終わったのである。

 

番組では、今のロシアに一体ゴルバチョフ時代からのどんな遺産が残っているかという点もテーマに取り上げられていた。今のプーチン政権は、ゴルバチョフ氏が目指した路線から大きく外れている。今のロシアには商品が溢れ、モスクワのショッピングモールは、ニューヨークやミラノのそれと見間違うほど煌びやかな世界を作り出している。だがロシアには、言論の自由も政府を批判する自由もない。ゴルバチョフ氏がかつて法律を勉強したその同じ大学に通う若い学生は言う、「昔は大学生というのはいつも政治への関心や意見を持っていた。でも今は意見を持っていることを知られた途端に、最悪の場合退学処分にされる惧れがある。」それでも今ロシア全土で繰り広げられている市民たちの民主化運動は、ゴルバチョフ時代の遺産なのではないだろうか。ソ連時代ですら民主化が可能であったことを知った市民たちは、自由を求めて立ち上がることにもはや躊躇しないのではないだろうか、と少なくとも欧米の識者たちは見ている。政権を去って10年経った頃ゴルバチョフ氏は、同じく政界を引退していた米国のブッシュ(シニア)氏と面談する機会があった。この時ブッシュ氏はゴルバチョフ氏に、「貴方のおかげで、私の孫たちは将来ずっと平和のうちに暮らせる大きなチャンスを手にした」とあらためてお礼を述べたという。また、東西統一の前後にドイツの連邦財務相としてゴルバチョフ氏に何度も会ったことのある政治家テオ・ヴァイゲル氏は、次のようなエピソードを披露している―「1991年夏のクーデターから政界を追われるまでゴルバチョフ氏が体験した最後のつらい日々について、『あの時はドイツの国民の多くが貴方のことを心配し、また貴方のために祈っていたのですよ』と氏に伝えたら、ゴルバチョフ氏ははらはらと涙をこぼした。」欧米から見ると、ゴルバチョフ氏は今でも間違いなく「悲劇の英雄」(米政治学者ウィリアム・タウブマン氏の言葉)なのである。「たとえその後に続く新体制を築きあげることができなかったとしても、旧体制を崩壊させた人物は英雄と呼べるのではないか」と、番組の最後で左党(Die Linke)の政治家グレゴール・ギジ氏が語っていたが、この言葉に代表される通り、ゴルバチョフ氏についてのこのドキュメンタリーは、今なおドイツ人が氏に抱いている深い敬意と感謝、それに暖かい共感に溢れた番組となっていた。 

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