メルケル首相の置き土産
7月半ば、メルケル首相はワシントンのホワイトハウスにバイデン大統領を訪れた。これは、間もなく首相の座を退くメルケル氏の「お別れツアー」の一環で、最後の訪問先が米国だったのである。バイデン大統領がホワイトハウスに欧州首脳を迎えるのは今回が初めてということであったが、そのバイデン氏がメルケル首相に最大級の敬意を表明したことが報道された。いわく「メルケル氏の首相就任期間には歴史的な意義が認められる」、「メルケル氏はドイツと世界に画期的な功績を残し」、「常に正義の側に立ち人間の尊厳を守り続けた」といった調子で、「貴方がいなくなることを私は本当に残念に思う」とも付け加えたという。「貴方は(ドイツ首相就任期間中に)米大統領を4人も体験したのだから、ホワイトハウスについては私より精通しているでしょうね」とのジョークも飛び出すバイデン大統領の暖かい歓迎に、メルケル首相もさぞやいい気分になっただろうと想像されるが、その後米国記者たちが、メルケル氏自身の体験から具体的に「過去4人の米大統領比較コメント」を引き出そうとしても、いつもの通りメルケル氏はその手には乗らず、「確かに私は4人の方々全員と共同記者会見を行ったことがありますが、それぞれの会見をどう感じたかは皆さん次第です」とかわしたということだ。(以上、Frankfurter Allgemeine Zeitung 2021年7月16日付記事「メルケル首相のバイデン大統領訪問」より)さて、メルケル氏のこのワシントン訪問は「お別れ訪問」とは呼ばれたものの、実際には、バイデン大統領との対談テーマに欧州と米国間の重要議題がいくつも持ち込まれていた。気候変動対策、対中国政策、デジタル化とデータ保護の問題などと並んで、中でもかなりの上位に位置づけられていたのがNordstream 2をめぐる米独の軋轢をどう解決すべきかという問題であった。
EUがロシアと共同でバルト海に建設している天然ガスパイプラインNordstream
2については、このブログでも時々報告してきた。これは、天然ガス世界市場におけるシェア第一位のロシアのガス供給企業Gazprom社とEUの5企業が共同で行っているプロジェクトである。EUからすれば、今後増加する欧州の天然ガス需要を、地上の通過料金不要の海底パイプライン経由でロシアからこれまでより安い価格で安定して満たせるという長所、ロシアにすれば、欧州のエネルギー政策に大きく関与し欧州エネルギー市場に地歩を築けるという長所があり、一見Win-Winに思えるのだが、実はこれは、EU加盟国間でも利益相反が大きく最初から批判が絶えないプロジェクトであった。これまでロシアからの地上ガスパイプラインの通過国となってきた国は、海底パイプラインができることでロシアからの地上パイプライン通過料金が取れなくなるという損失を被る。またロシアからではない天然ガス供給ルートを別に確保している国にとっては、EUがエネルギーでロシア依存を深めることは受け入れ難い。そして、EUのロシアへの依存を危惧してこの計画に当初から反対してきたのは、米国も同じであった。加えて米国には、自国で余っている液状ガスをEUに売りつけたい、つまりEUはロシアから天然ガスを買うのではなく米国から液状ガスを買うべきであるという自国の経済利益を優先させたい事情もあり、前トランプ政権下ではNordstream
2プロジェクトを妨害する策が実際に取られ始めたのである。昨年トランプ大統領は、ロシアとEU内でこのガスパイプライン建設を請け負っている企業への経済制裁を始めた。この結果、建設を委ねられていた欧州企業が米国の制裁を恐れて次々手を引いたために、事実上この海底ガスパイプラインは昨年、残すところ約150km(全体の残り10%強)のところで中断してしまったのである。バルト海を渡って来るこのパイプラインの終点が北ドイツであることや、出資企業としてドイツの2企業が名を連ねていること、そしてドイツ自身がロシアの天然ガスを必要とすることで、米国の横槍に対してはEUの中でも特にドイツが憤ったのであるが、逆に、EU内でこのプロジェクトに反対している国からのドイツ批判はますます声高になっていった。その後今年に入り、ロシア主導でNordstream
2の建設は少しずつ再開され、現時点で98%方完成したということであるが、米国に関して言えば、その後トランプ政権からバイデン政権に交替した後もこの件に関するスタンスは変わらなかった。ただ、バイデン大統領は経済制裁をロシアだけに限り、これまでEU企業に対しての具体的な制裁には踏み出していない。今回メルケル首相がバイデン大統領と直接対談するにあたっては、この問題で何とか米独対立の突破口を開きたいという意図もあった。
そしてある程度までこれは成功したようである。バイデン大統領は、ほぼ完成しているパイプラインについて今更制裁云々と言ってももはやほとんど意味がないことだ、という見解を述べて、メルケル首相との対談においても歩み寄りの姿勢を見せたことが伝えられている。ただし、このパイプライン建設について米国とEUが等しく抱いている最大の懸念については、ドイツにも同じ姿勢を取ることが求められた。それは、Nordstream
2が完成することでロシアが圧力を強めてきそうなウクライナの問題である。これまでウクライナは、地上パイプラインでロシアから欧州に運ばれる天然ガスの約半分が通過する国であり、その意味でロシアにとっては無下に扱うことができない国であった。ウクライナはロシアから通過料金を徴収してきたばかりではなく、その料金価格の交渉を、ウクライナ自身がロシアから買っている天然ガスの量や値段の交渉にうまく利用して自国に有利に進めてきた側面もあった。従って自国を通過するロシアのガスパイプラインは、ウクライナにとってロシアに対する一枚の強いカードであったと言える。だが、Nordstream
2の完成で従来の地上パイプラインの重要性が減少すれば、ウクライナはこの強いカードを失うことになる。同時に、親EUの立場を取る国としてこれまでもさんざんロシア側の軍事介入や威嚇を受けてきたウクライナに対するロシアの圧力は、将来否応なく強まることが予想されるのである。このウクライナの立場をどう救い、ロシアからの圧力をどう防ぐのか。これについて米国にも納得でき合意できる解決策を見つけよ、というのがおそらくはメルケル首相がこの時ワシントンから持ち帰った宿題だったのだと思われる。二人の対談から約一週間経った7月21日、米独専門家同士の話し合いを経て、ベルリンとワシントンは共同でNordstream
2プロジェクトをめぐる「妥協案」を発表した。
その内容は以下の通りである― ①現時点でウクライナ政府とロシア政府の間で結ばれているウクライナの「ガスパイプライン通過国契約」は2024年までと期限が切られているが、ドイツは、この契約を10年間延長できるようあらゆる手段を講じる義務を負う、②ドイツと米国は、その間にウクライナがエネルギー転換を進められるよう「グリーン・ファンド」を設立し、投資支援を行い、また民間の機関投資家からの投資も募る。この妥協案の中では、最初にドイツがウクライナのために「グリーン・ファンド」に投じる額も具体的に言及された。しかしながらこの米独妥協案が発表されるや、ドイツメディアは一斉に批判記事を掲載し始めた。中でも全国紙 Süddeutsche Zeitung は2021年7月21日付記事「こんな甘い妥協案では問題は解決できない」の中で、ロシア、米国それぞれの立場を明確にしながらドイツの曖昧な姿勢を批判している。いわく、Nordstream
2を進めるプーチン大統領の最大の目的は、そもそもがEUエネルギー市場に食い込むことよりも、ウクライナを迂回するガスパイプラインを建設することで同国を制圧することにあるのに、そのプーチン氏の思惑にこの程度の妥協案で対抗できるのか。一方、米国政府が議会の反対にもかかわらずこの件でドイツに妥協してきた裏には、バイデン政権が共和党に対抗するためにドイツを味方に付け、パートナー関係を深めることを決めたからである。これら両国の明確な意図に比して、メルケル首相の立脚点があまりに弱いことをこの記事は指摘しているのである。辞めていくメルケル首相が、この件での米独対立を解決の見通しなきままに放っておくわけにはいかないと考えたのか。トランプと異なり気候変動対策に積極的なバイデン大統領が、自国の液状ガスを欧州に売りつけようと一生懸命になることはもはやないであろうとの楽観的観測から、それならドイツからも歩み寄りの姿勢を見せねばならないと考えたのか。そもそもメルケル首相は当初、「ロシアから欧州に供給される天然ガスがどういうルートを取るかは重要ではない」という、彼女にしては「賢明ならぬ」発言をしていたが、さすがにやっと「ルートが大事なのだ」という点に気づいたということか―。この記者によれば、ウクライナの立場を救うのに役立つことがあるとするなら、それは、「いざとなったらドイツ側からでもガスパイプライン稼働を止める用意がある」ことをロシアに対してもEUに対しても明言することであるが、ドイツには本気でこれを言う用意はないであろうことがこの記事では指摘されている。
この米独妥協案に対しては、ロシア側からも早速米国とドイツに向けての非難声明が発せられた。米国とドイツが共同で行った声明中に、「ロシアはエネルギーを武器にして今後ウクライナに対し更なる攻撃的行動を取ってはならぬ」と警告する文章があったことに、ロシア側が正式に抗議したのである。それは「われわれは、エネルギー資源を政治的プレッシャーの道具に使ったことなど一度もない」という内容であり、米国とドイツが最初からロシアを敵視している調子を非難するものであった。(Die
Zeit 2021年7月22日付記事「ロシアが、ドイツと米国の『政治的攻撃』を非難」より)更に、当のウクライナもポーランドと共に両国外務省共同声明を発表し、米独妥協案を「生温い」と批判している。Nordstream
2によって、ロシアが欧州の安全を脅かす可能性がまた一つ高まるのに、この点をドイツは本当に真剣に認識しているのか、米国を懐柔してこのプロジェクトにゴー・サインを出させたドイツの最大の関心は、結局のところ自国の経済利益にあるのではないかと、ウクライナはもとより、最初からこのプロジェクトに反対していたポーランドやバルト三国、ルーマニアといったEU諸国からのドイツ批判が今また嵩じる結果になったのだ。こうして、政界を去る前に米国との対立を解決する糸口を求めたメルケル首相の努力は、却って足元の対立を深めてしまったようで、間もなく政権を引き継ぐ次期ドイツ首相にとっては、この一件はメルケル氏の重い置き土産となったのである。
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