「アフガニスタン撤退は、われわれが敗北を認めたということ」

2002年初頭にアフガニスタンに出兵し、その後20年間近く同国に駐留していた連邦防衛軍(Bundeswehr)が、今年6月末に最後の兵の引き揚げを完了した。51日からすべてのNATO駐留軍が引き揚げを開始したのだが、これは、4月半ばにまず米国が2021911日(注:米国内イスラム同時テロの日から数えて20周年記念日)までの米軍引き揚げをNATOに通告してきた翌日に、NATOで行われた理事会決議に従ったものだ。ドイツの連邦防衛軍もこれに従うことになり、他国同様すぐに引き揚げ準備に入っていたのである。この20年間、ドイツは計16万人の兵士たちをこの地に送り込んできた。原則的に各人の駐留期間は46か月であり、兵たちは次々交替していた。20年間の派兵にドイツが費やした費用は12億ユーロ以上、この間に亡くなったドイツ兵士は59人、うち35人が敵のテロや攻撃で死亡、あるいは戦闘の中で戦死した。2002年から始まる最初の13年間、連邦防衛軍は「ISAF(アイサフ:アフガニスタン国際治安支援部隊)」に参加し、その主要任務とされたアフガニスタン政府活動支援と国内の治安維持に努めた。このミッションは2014年末に終了するが、その後NATOの新たなミッション「レゾリュート・サポート(Resolute Support)」がスタート。これに参加すべく連邦防衛軍も引き続きアフガニスタンに留まり、2015年からは主にアフガニスタン兵士自身による自国軍隊結成への助力と地元兵士たちの教育・訓練指導、更に幅広く当地に民主社会を確立するための相談役のような役割を務めてきた。この「レゾリュート・サポート」の枠内でアフガニスタンに留まったドイツ兵士の数は最後の時点で1100人に上っており、外国軍として連邦防衛軍は米軍に次いで二番目の規模であった。しかし米軍及びNATO軍の撤退が始まるや、危惧された通り、あちこちの地方で一度放逐されたイスラム原理派タリバーンが舞い戻り、その前進が活発となる。すでにアフガニスタン政府軍がタリバーンに制圧された地域もその数を増やしている。これまでアフガニスタン政府を守ってきた外国軍が完全に撤退してしまったことで、今後この国がまたタリバーン支配に後戻りし国内の治安が急激に悪化するであろうことは、多くの人々の目に明らかなのだ。タリバーンを結局は抑え切れず中途半端のままで撤退することになったのであれば、この20年間に米国とNATO、そして連邦防衛軍がアフガニスタンで行ってきたことには一体どういう意味があるのか、何かしら良いものをもたらしたのか―。これについて今ドイツ国内で何が語られているのかを、今回は報告する。

 

202182日、公共テレビのARD局が「撤退(Der Abzug)」という45分間のドキュメンタリー番組を放映した。「アフガニスタンからの撤退は、われわれが敗北を受け入れたということだ。現実を直視するなら、そう言わざるを得ない」という元連邦外務大臣で国際政治専門家のヨシュカ・フィッシャー氏(緑の党)の言葉で、この番組は始まっている。これは、連邦防衛軍がアフガニスタンに駐留していた20年間の出来事を振り返ると同時に、その結果この国に何がもたらされ、また外国軍が撤退してしまった今アフガニスタンの市民たちがどのような心境でいるのかについて報告する番組であった。引き揚げが完了する直前に、連邦防衛軍の司令官が間もなく帰国する兵士たちを前にして、「われわれの任務は完了した」と宣言する場面が紹介されたが、その一方で兵士たちの中にはフラストレーションを抱えている者も多く、それは「このミッションがそもそも戦略的に不可能(impossible)なものであったためだ」と軍事専門家らは説明する。「ドイツがアフガニスタン派兵に参加したのは、米国に対しNATOの加盟国として連帯を見せる必要があったためであり、ドイツには最初から具体的戦略などなかった・・・軍事力によって一つの国を安定させられると考えることが、そもそも誤りなのだ」という軍事専門家センケ・ナイツェル氏の言葉は、200112月末、当時の連邦議会が明らかな多数をもって連邦防衛軍のアフガニスタン派兵を決めた際に、この時首相だったゲアハルト・シュレーダー氏が「苦い現実ではあるが・・・アフガニスタンの平和は戦争によってのみ達成できる」と述べたことへの批判である。米国は2001年のナインイレブンの4週間後にはすでに、タリバーンを敵に回しての軍事行動を開始しており、首都カブールをタリバーン支配から解放していた。連邦防衛軍が兵を送り始めるのは、連邦議会の承認後、年明けすぐの200214日であった。そしてこれが、連邦防衛軍史上最長で、かつ最も多く犠牲者を出す派兵となったのである。

 

20026月には、西側が手を貸すことでアフガニスタンにハミード・カルザイ大統領を頂点に置くアフガニスタン・イスラム共和国が成立する。しかし、西側が演出する形で民主主義政権が作られ、また多くのアフガニスタン市民たちが実際に今度こそ平和で民主的な社会を望んでいたとはいえ、アフガニスタンを短期間でこれまでとは全く違う体制の国に生まれ変わらせるのは無理な話であった。この理由を、前述の元外相で国際政治に精通したフィッシャー氏は次のように説明している。「第二次大戦後にドイツを再建したのとはわけが違う。当時ドイツにはもう一度そこに戻る伝統基盤があったが、アフガニスタンにはそれがなかったのだ」。そしてこの後一年も経たぬうちに始まったイラク戦争によって、早くもアフガニスタンの治安は危うくなる。この機会にイラクを叩いて中東地図を米国に利するように塗り替えようとした米ブッシュ政権は、米国の最強部隊をアフガニスタンからイラクに移動させ、その結果アフガニスタンが手薄となり、この機を捉えたタリバーンが蘇ってしまうのである。フィッシャー氏はこの番組の中で、米国が始めたイラク戦争こそがアフガニスタンを生まれ変わらせようとする西側の努力が頓挫した最大の原因だ、と指摘している。一方その間にドイツの連邦防衛軍は、アフガニスタン北部に長期駐屯を覚悟しての大規模な軍事拠点を築いていた。ドイツがアフガニスタン北部の治安維持を引き受けたのである。そして連邦防衛軍の発表によれば、すでに2002年春からアフガニスタンではドイツ兵士の死者が出ている。最初は事故死が多いが、2003年半ばから少しずつテロの犠牲となる兵士の数が増えていく。それまで南部が中心になっていたタリバーンの攻撃が、徐々に北部にも広がっていったのだ。攻撃されれば連邦防衛軍も応戦せざるを得ず、ドイツ兵士たちも自動的に戦いを強いられていく。2007年にはタリバーン側の自爆テロでいきなり3人のドイツ兵士が、2009年には激しい戦闘の中でやはり3人のドイツ兵士が亡くなり、ドイツ国民の中にも「これは戦争なのだ」との認識が強まる。2009年に行われた国民アンケート調査では、27%が「このまま駐留を続けるべき」と答え、69%が「連邦防衛軍はすぐに引き上げるべき」と答えたとの結果が出た。もっともその間にも、命を危険に晒して任務についている防衛軍兵士たちへの感謝と敬意は国民の中で高まっており、国民が批判の対象としたのはあくまで政治側の決断であった。それでも毎年連邦議会では明らかな過半数をもって、「このままNATOISAFへの参加を続ける」ことが決議された。

 

連邦防衛軍史上最悪の出来事が起こったのは、20099月であった。北部クンドゥーズ州でタリバーンの攻撃計画を事前に察知した連邦防衛軍の司令官が、タリバーンが盗んだタンクローリー二台を空爆するよう米軍空爆機に指示する。その結果周辺の住民までがこの空爆の巻き添えになり100人以上が死亡。子供を含む多くの一般市民が犠牲になったことで「戦争犯罪」ではないかとドイツ国内でも大騒ぎになる。数か月の調査期間を経てこの事件は結局、遺族への補償金支払いと当時の連邦防衛大臣が責任をとって辞任することで一応の決着を見た。その後も多くの疑問や批判に晒されながらも、連邦防衛軍のISAFにおける任務は2014年まで遂行される。その後ミッションの内容が「レゾリュート・サポート」に変更になった時、当時連邦防衛大臣であったフォン・デア・ライエン氏は「これから連邦防衛軍は戦闘はせず、相談役としての務めを果たしていく」とのみ説明したが、これはドイツでは、「米国及びNATOがタリバーンを軍事的に制圧することに最終的に失敗し、今後はアフガニスタンが自力でどうにかできるようになるための支援に回ることにしたのだ」と理解された。そして今年、この「レゾリュート・サポート」も終了したとみなされ完全撤退に至るわけであるが、この経緯を元緑の党の議員で安全保障専門家のヴィンフリート・ナハトヴァイ氏は、最初から最後まで「幻想」だった、と批判している。「『再建幻想』で始まったアフガニスタン駐留が、今は『撤退幻想』になっている」― つまり、外国軍が撤退すればタリバーンにしても敵がいなくなるわけであるから、アフガニスタンは平和になるであろうと無理に思おうとしている、というのである。だが実際には、「レゾリュート・サポート」に切り替えられてからのアフガニスタン一般市民の犠牲者数は毎年20%ずつ増加していることが報告され、外国軍が完全に撤退してしまった今後、タリバーンがどういう暴力行為に出るのかについての市民たちの不安は増大している。特にこれまで外国軍のための通訳や案内を仕事にしてきた「地元の協力者たち」は、タリバーンに「スパイ」とみなされ殺害される危険がある。このようなアフガニスタン人のうち希望する全員が無事出国しドイツに逃れることができるまで、ドイツは責任を持たねばならない。また、この20年間で改善されてきたアフガニスタンのインフラ、特に病院や学校、そして今や女の子や若い女性にも保障された教育を受ける権利が、今後もアフガニスタン政府だけで守り続けられるのか。今アフガニスタン市民の間の不安はあまりに大きく、この国が置かれている状況がいかに不安定であるかは火を見るよりも明らかなのである。番組の中では、アフガニスタンでの任務中に大怪我を負って以来車椅子となった元兵士がインタビューに答えて、この20年間がアフガニスタンに何ももたらさなかったとしたならなんと悲しいことか、と述べていた。一方無事任務を終えて帰国した上官の一人は、この20年間にどんな意味があったのか自問することがあるかと聞かれて、「そういう問いかけはしない」ときっぱり答えていた。この20年間にアフガニスタンで亡くなったドイツ兵士は59人、西側兵士は合計で約3500人、アフガニスタン兵士は69,000人、そして巻き込まれて亡くなったアフガニスタン市民は50,000人近いと言われている。 

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