デジタルユーロがやって来る

コロナ時代、ドイツではどこで買い物をしようとレジのところに大抵「お支払いはなるべく『コンタクトレス(contactless)』でお願いします」との注意書きが掲げられている。現金の受け渡しによる感染危険を避けるために、なるべくスマートフォンかカードによる決済方法を選んで店員とのコンタクトを無くしてくれ、という意味である。コロナ禍にあってドイツでは、そもそも店舗が閉まっていたり入店できる人数制限を行っていた時期が長かったので、買い物も支払いもインターネットで行うケースが急増したと思われるが、もともとドイツ人はEUの中でも特に現金好きの国民で知られている。今年初頭にドイツ連邦銀行が発表した2020年のドイツ消費者の決済方法調査によれば、コロナ年であったにもかかわらず昨年は、店舗での買い物の61%が現金払い、36%がカード払い、そして残りの3%がスマートフォン決済などその他の方法が取られたという。日本で「カード払い」というとクレジットカードを指すが、ドイツでは圧倒的に銀行口座カード(Girocard)が使われる。ドイツの銀行口座カードは日本のATMカードとは違い、単に銀行のATMを操作する時にのみ使われるだけではなく、商店、飲食店、美術館、役所などほとんどどこでも支払いに使うことができる。即時決済で自分の銀行の普通口座から引き落とされる簡便な決済方法だ。前述の、「ドイツの消費者の36%がカード払い」の「36%」の内訳は従って、この銀行口座カードが30%、クレジットカードが6%となっている。それでもいまだに過半数が現金払いを優先させているドイツは、スウェーデン、ノルウェー、デンマークをはじめとする北欧の国々がすでに「キャッシュレス社会(Cashless Society)」モデルを確立していることに比べると、この点でかなりの後進国なのである。

 

フランクフルト市内マイン河畔にそびえる巨大なビルを拠点としているユーロ紙幣銀行の欧州中央銀行(ECBEuropean Central Bank)が、714日、今後二年間に亘る大プロジェクトとして、デジタルユーロ導入準備に動き出すことを正式に発表した。「デジタルユーロ」なるものについては、今年に入ってからECB総裁のクリスティーヌ・ラガルド氏がたびたび口にしていたことから、やがては導入に向けて具体的に動き出すのであろうとの予想はされていたが、今回公式発表があったことでドイツメディアは早速、一般市民の疑問に答えるべく解説記事を掲載し始めた。デジタルユーロ導入は、やがては現金を廃止することを目的にしたECBの積極戦略プロジェクトというよりは、むしろ逆で、現金使用が減少しつつある社会の現実にECBも対応せざるを得なくなり、世界の「キャッシュレス先進国」に駆り立てられる形で必要に迫られて決断したと言う方が正しい。すでに中国や米国、そして日本でも準備は始まっており、「デジタル人民元」、「デジタルドル」、「デジタル円」といった世界の通貨に対して、ユーロも「デジタルユーロ」に変身させてその独立性を保つ必要がある、ということだ。中でも中国のスピードは目覚ましく、中国政府によれば、来年の北京五輪を機にデジタル人民元発行を開始、うまく行けば現金はその後廃止されるらしい。なぜ中国はそんなに急いでいるのか、そしてなぜECBを含め他通貨の国がそのような中国のスピードに追いつこうと焦らねばならないのかという疑問が生じるが、これは「デジタル通貨一番乗り」の旨味のせいであるとドイツでは説明されている。中国はデジタル人民元に切り替えるや、IoTInternet of Things:モノ相互間のインターネット)とAIArtificial Intelligence:人工知能)を駆使した第四次産業革命にこの通貨を組み込み、世界との貿易をデジタル人民元で行うようになる。デジタル通貨を使っての貿易に一番乗りをする国は、新しい決済方法による貿易ルールをまずは自国に都合が良いように作ることができる、というのである。ふうん、そんなものなのか、と分かったような分からないような話だが、それとは別に、欧州でも前述のように「キャッシュレス社会」を実現しつつある国が増えていることを鑑みれば、この通貨のデジタル化の流れはもはや止めようがなく、現金が姿を消すのは時間の問題なのである。

 

さて、デジタルユーロと聞いて一般消費者がまず最初に抱く疑問は、それはBitcoinDiemといった仮想通貨とどう違うのだ、という点だ。規制を受けずにそれぞれの開発者が特定の仮想コミュニティの中で流通させるデジタル通貨が仮想通貨であるが、デジタルユーロと仮想通貨の最大の違いは、取引高によって価値が上下する仮想通貨と異なり、ECBが発行するデジタルユーロはその価値が安定している点にある。昨日1デジタルユーロであったパンは今日も明日も1デジタルユーロであり、急に価格が上昇するようなことはない。通貨の価値が安定している以上、そこに投機的な要素は全く介入しないのである。消費者が次に抱く疑問は、ではデジタルユーロは現在すでに行われているカード払いやスマートフォン決済とはどう違うのか、という点である。デジタルユーロによる決済もカードやスマートフォンを利用することになるのだが、現在民間銀行が発行している銀行口座カードやクレジットカード、あるいはスマートフォンに搭載したアプリケーション経由のApple PayGoogle Payといった民間企業による決済サービスと何が違うのかというと、これも一言で説明できる。相違は、デジタルユーロによる支払いは現金同様、全く匿名でできることにある。なぜならデジタルユーロ決済はインターネットを必要としないからであり、オフラインで行う支払いは記録に残らない。逆に、現在行われている現金以外の決済方法は、電子カード使いであれスマートフォン経由であれオンラインで行われるために金銭の動きや支払いの記録がすべて電子データとして残る。この消費者の個人データを獲得することが、決済サービスを提供している民間銀行や民間企業の目的なのだ。だがデジタルユーロは、消費者がECBに作った自分の口座から直接支払いのために引き出す通貨であり、そこに民間銀行や民間企業は介入しない。そしてECBは民間の商業銀行ではないので顧客の消費行動や金の使い道には全く関心がなく、データを集める必要がないのである。その意味で消費者にとってデジタルユーロは、たとえモノとしての実体はなくとも限りなく現金のユーロに近い通貨であると言える。

 

では、一体デジタルユーロはどういうシステムで成り立つのか。現在考えられているのは、各消費者がECBに口座を持ち専用の電子カードもしくは携帯アプリを使って、買い物をする際にその口座から支払う方法である。だが、ここでも疑問がいくつか浮かぶ。まずは、ユーロの消費者が全員ECBに口座を作るようになったら民間銀行は潰れるのではないか、という点だ。預金者が皆ECBに移ってしまうなら、民間銀行にとっては大惨事である。これについてECBは、民間銀行と張り合う意図などさらさらないことを明らかにしており、だからECBの口座に置く金額には、たとえば3000ユーロ(約40万円)までという風に上限をつける計画であるという。次なる疑問は、たとえ決済にインターネットを使わないにしても、ECBに口座を持つのであれば当然その口座の動きはECBの中で記録されるはずで、その意味ではやはり現金とは異なり、無記録、匿名、というわけにはいかないのではないかという点だ。これに関してECBは、口座の出入は記録されてもECB自身はそれに全く関心がなく注意を払わない、あとはセキュリティを万全にして個人データが外に漏れないようにする計画だ、と説明している。もう一つ別の疑問は、それでも最終的に現金が姿を消すのであれば消費者はECBのデジタルユーロ口座に縛られ、将来低金利状態が続きECBがマイナス金利を導入するようなことがあれば、消費者には他の逃げ道が無くなるのではないかという点である。これについてはECBは、現時点でECBは中国とは異なり、まずはデジタルユーロと現金の共存を前提としていると回答。いずれにせよまだまだ出てくる細かい疑問点に答えられるよう、ECBは今後導入準備及びテスト期間として2年を設けたのであり、その間に他の金融機関とも相談しながらあらゆる面からの調査と実験を行うということである。

 

以上、このところドイツのメディアでよく取り上げられているテーマ「デジタルユーロとは何か」の解説記事から、おおよその内容をまとめてみた。デジタルユーロの導入は、5年後2026年が目指されている。このプロジェクトは、他の通貨をライバルに回しての世界通貨ポジション争いのように見えるが、欧州の場合、このプロジェクトを駆り立てているエンジンはそれだけではない。このところ若い世代を中心に利用者を増やしている民間企業の決済サービスは、Apple PayGoogle PayPayPal・・・とどれも米国企業であり、いわば欧州消費者の個人消費データがすべて米国に流れている状態なのである。これは欧州経済にとって大きな損失であり、ECBはいわば米国企業から欧州消費者を取り戻すために、これに匹敵するスピード、簡便性、安全性を備えた新しい決済の選択肢を欧州の中で提供しようとしているとも言える。こうして、たとえECB自身に消費者個人データへの関心がなくとも、各国の動きの背後にはやはり世界規模の個人データ獲得争いという側面が認められるのである。 

コメント

このブログの人気の投稿

大学生のための奨学金制度と教育の機会均等

(最後の挨拶)ドイツという国

右翼出版社の存在権利