プーチン流歩み寄りとその波紋

 619日、ドイツの全国新聞Die Zeitの編集部に、ロシア大使館経由でプーチン大統領の原稿が届いたという。原稿はロシア語の原文にドイツ語訳が添えられていた。80年前の1941622日は当時のナチ政権がソ連に侵攻した日であり、この日からソ連赤軍の対独戦が始まるのであるが、この侵攻はドイツでも「ソ連襲撃(Überfall)」と呼ばれ、1939年にドイツとソ連の間で結ばれた不可侵条約をドイツが一方的かつ意図的に破る行為であった。それに続く第二次大戦で亡くなったソ連兵士とソ連の一般市民は合計すると2,700万人にも上ると言われ、世界最多となっている。このナチスドイツによるソ連襲撃から数えて丁度80周年となる今年622日を前にして、618日にベルリンでは特別展「犯罪の広がり‐第二次大戦中のソ連捕虜たち」が開幕。これは570万人にも上るソ連兵捕虜たちに対してドイツが行った、国際法違反の残虐行為の数々を展示するものである。570万人のソ連兵捕虜たちのうち300万人が銃殺、あるいは餓え、病気、衰弱で亡くなった。これまでドイツでは、彼らソ連兵捕虜たちの運命に注目が集まることは少なかったので、今回80周年を機にこの展示会が企画されたのである。開幕の日にはドイツ連邦大統領のシュタインマイアー氏も演説を行った。ナチスの犯罪を語る演説でいつもそうであるように、この日の連邦大統領の演説も、「世界への警告として、われわれにはナチスの犯罪を常に思い起こす義務があること」を強調するものであった。そして、まさにこの記念日の622日に掲載して欲しいとロシアのプーチン大統領がDie Zeit紙に送ってきたのが、前述の原稿だったのだ。戦後のソ連、そして今のロシアとドイツ、欧州との関係をプーチン大統領の視点から語ったこの記事は、ロシア側の指示通りこの日Die Zeit紙の電子版で発表され反響を呼んだ。それは、ドイツ統一からNATOの拡大、そして2014年に始まったウクライナ危機についての理解が、ロシアと欧州で全く異なることを今更ながらに明らかにする内容だったのである。

 

プーチン大統領の寄稿文の主旨は、「ロシアは欧州大陸最大の国の一つ」であり、「われわれが共有しているこの大陸の繁栄と安全には、ロシアを含むすべての国が結束しての努力が不可欠である」こと、「ロシアは欧州との包括的パートナーシップを再建する用意がある」という点にあった。そして今これを妨げているのは、「われわれが長らく引きずってきた誤解、中傷、葛藤、過ち」であり、だからこそ「これらの過ちを今それと認め正さねばならないのだ」と、プーチン氏は訴えているのである。しかしその一方で、この主張に至るまでにプーチン大統領は、ロシアに対する欧州の偏見と不信を批判し、欧州が約束を破ってきたことを非難することを忘れていない。(プーチン大統領の寄稿文からの引用はすべて、2021622日付Die Zeit 記事「過去の歴史にもかかわらずオープンであること」より)

欧州で増大しつつある不信の根本原因となったのは、東側に対する西側軍事同盟の拡大だ。これが始まったのは、統一ドイツのNATO加盟を認めるよう、当時のソ連政府が説得されてしまった時である。当時口頭で請け合われた約束、「お前たち(東)に対抗してのものではない」、あるいは「境界をお前たち(東)の方に寄せて拡大していくことなどない」はその後あっという間に忘れ去られ、(西側がその後の方針とする)先例が作られてしまったのだ。

これは、1999年からNATOが拡大を始め、旧ソ連国も含めた14か国がその後NATOに加盟するに至ったことを指している。「境界のない大陸を作ろうという希望は、打ち砕かれた」― 打ち砕いたのは欧州だ、とプーチン氏は言いたいのだ。更に、2014年のウクライナ危機についても、プーチン大統領は次のように解説している。

・・・(欧州の)アグレッシブな政策がどういう結果をもたらすかを明瞭に見せてくれたのが、2014年のウクライナの悲劇だ。欧州は、ウクライナ国家による違憲軍事行為を積極的に支援し、それがすべての始まりとなった。・・・なぜEU諸国は目的もなくこれを支援し挑発したあげく、ウクライナの分裂とクリミアのウクライナ国家離脱を引き起こしてしまったのか。

どうやらプーチン大統領から見た欧州大陸のトラブルの原因は、EUが他国に、自分たち西側につくかロシアにつくかの選択を迫り最終決断を強制していることにある、ということらしい。

 

このプーチン大統領の「歩み寄り」と「訴え」に即反応したのが、ポーランドであった。プーチン氏の寄稿が掲載されたその翌日、同じDie Zeit紙に今度はポーランドの元外務大臣であったラドスワフ・シコルスキ氏が反論を寄せてきた。シコルスキ氏は、ウクライナ危機が起こった際にも外務大臣を務めており、この解決に直接関わった一人である。氏はこの論考の中で最初から、プーチン大統領の誤りを次々指摘している。第二次大戦中に最も被害を受けたのは今のロシアではなく、ベラルーシやウクライナであるのにそれについてプーチン氏は一言も触れていないこと、ソ連の赤軍が欧州をナチスの支配から解放した、とプーチン氏が言うのは半分しか真実ではなく、第三帝国崩壊後、欧州の半分は今度はソ連の全体主義の支配下に入ったのだ、ということ、プーチン氏が嘆く「NATO拡大」は、NATO自身が大きくなろうとしたからではなく、ロシアの威嚇に耐えかねた諸国が自らNATOに押し寄せたからであり、NATOはこれらの国を「仕方なく」受け入れたのだということ、などである。そしてプーチン氏のウクライナ危機解説にに対しては、当時を直に体験したシコルスキ氏は次のように反論している(以下引用は、2021623日付Die Zeit記事「われわれは歴史的真実を見据えねばならない」より)―

プーチン氏は2014年のウクライナの出来事を「国家による違憲軍事行為」と呼んでいるが、それは事実ではない。私がキエフに飛んだ時は・・・80万人のウクライナ市民がEUとの連合協定(注:EU加盟の一歩手前となる協定)を求めて平和的なデモを行っていた。最初この協定に調印することを約束していた当時のヤヌコヴィッチ大統領は・・・プーチンから多額の支援金を持ちかけられたことで、201311月に連合協定への署名を拒むことを決めた。この大統領の心変わりに抗議すべく、まずはキエフの大学生たち、そしてその後何万人ものウクライナ市民が極寒の通りに出ていくことになったのである。

これに続けてシコルスキ氏は、この平和デモに参加していたウクライナ市民たちに最初に銃を向け発砲を始めたのは、ヤヌコヴィッチ大統領指揮下にあった保安部隊であったことを強調している。そしてプーチン大統領が表現するところの「クリミア半島のウクライナ離脱」は、あたかも英国のEU離脱同様、クリミア半島の意志であるかのように聞こえるが、実際にはクリミア半島はロシアによって武力制圧されたのであって、それは国連でもとっくに認定されている事実である、とシコルスキ氏は指摘する。「(ロシアが軍事介入していないと言うなら)なぜプーチン大統領は、20142月のクリミア侵攻作戦におけるロシア将校たちの活躍を後日表彰したのか」。このようにシコルスキ氏は、プーチン氏の言説の中に数多く事実と反する箇所を見つけ指摘しては、自分たちの方になびくよう多くの国に強制しているのはロシアの方であり、その結果、ロシアの手から逃れようとする国々がEUに駆け込んでくるのだ、と結論している。「ロシアは、他国を同盟下に引っ張り込めるものと自らの能力を過信している」というのが、シコルスキ氏からのプーチン大統領への警告であった。

 

ロシアとドイツ双方にとっての記念日となったこの622日、プーチン大統領はメルケル首相に電話をし、ロシアとドイツ、両国の国民が互いに敵意を克服し和解することが、戦後欧州の運命にとって中心的な意味を持ってきたこと、この大陸の安全は、両者が協力の努力を惜しまぬことでしか成り立たないことを告げたそうである。一方メルケル首相の方は、当時のドイツ国家がその犯罪行為で旧ソ連国の人々に与えた苦しみに言及し、それにもかかわらずこれらの国の人々がドイツに許しの手を差し伸べてきたことに対する深い感謝の念を表明したという。そして、プーチン大統領はロシアを代表し、このメルケル氏の言葉と、前述のシュタインマイアー大統領の演説内容を高く評価すると返答したことが伝えられた。この電話のやり取りだけから判断すれば、ロシアとドイツ、相互理解に至る可能性はまだ十分にあるように勘違いしそうだが、たとえドイツが冷え切った関係の中にあっても尚ロシアとの対話を求める姿勢を崩さなかったとしても、事はもはやドイツだけで決められる範囲にはないのである。この後624日・25日に開かれたEU首脳会談では、ロシア対策も大きな議題の一つとなったのであるが、この議論の場でメルケル首相は、他のEU加盟国の前で大きな敗北を喫することになった。ベラルーシやウクライナなど隣国に対する挑発行為や軍事介入を続けるロシアへの経済制裁強化を決めるEU加盟国の中で、メルケル首相は、まずはEU代表者とプーチン大統領との対談を提案したのだが、この提案は他の加盟国にあっさりと却下されたのである。「今そんなことをすれば、ロシアの攻撃的な態度に褒美をやるようなものだ」というのが、反対派の意見であった。「個人的には、こういう状況にあってこそもう少し勇気をもっての一歩を踏みたかった」とメルケル氏がぼやいたことが、ドイツでは伝えられた。

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