村の生活

周囲をなだらかな丘陵に囲まれた人口約600人ほどの小さい集落に、ある日突然大きい十字架が現れた。真新しい角材を組み合わせただけの素朴な十字架であったが、高さが23mはあり、それが村を見下ろす丘をめぐる小道の脇に、ある日突然出現したのである。その山道にはもともと村を見渡せる形で木のベンチが一つ据えられていたのだが、天気のいい日に村人が散歩で通るほか人通りはない場所である。そのベンチのすぐ脇にこの十字架は立てられていた。ある日突然現れたこの十字架に最初に気づいた村人たちは、一体誰が何の目的であそこに十字架を立てたのであろうかと不思議に思った。こうして最初は隣近所とのおしゃべりの話題になったこの十字架は、その後日曜の礼拝時に教会でも噂話の中心になっていく。教区民が牧師に聞いても、牧師も知らないと言う。最初に十字架に気づいたある村人は、その時の不思議な気持ちとこの十字架を自宅の庭から毎日仰ぎ見る時の喜びを詩にしたのだが、牧師がその詩を教区民のために定期的に発行している「教区新聞」に載せたため、この十字架は最後には村人たち全員が知るところとなった。この村を見守っているようなあの十字架は一体どこからやってきたのだろう、なぜあんなところに突然現れたのだろう、という謎はその後も結局二か月近く村人たちの共通の話題となり、その不思議さがなんとなくわくわくするような密かな楽しみとして村人たちに共有されていったのである。いいじゃないか、謎は謎のままで、といった共通の認識が村人たちの中に生まれた頃、この謎はあっけなく解けた。なんと最初にこの十字架に気づいた村人の家のすぐ裏に住む年配の男性が、ある夜こっそりとこの十字架を立てていたのだった。この男性は一年ほど前に癌の診断を受けて以来闘病を続けていたのだが、患部を除去した後転移もなく最近無事に退院していた。闘病中はずっと神と対話しており、もし治ったなら何らかの形で絶対に感謝の気持ちを表そうと決めていたのだという。それがこの十字架になったのである。

 

この話は実は、バイエルン州北部の小さい村に住む私の義母が私に話してくれたエピソードだ。最初に十字架に気づいて詩を作ったのも、この義母である。この村には教会があって、あとは礼拝の後で村人たちが一杯ひっかけたり家族で昼食をとったりする料理屋がすぐ教会の向いにあるぐらいで、ほかに店は一軒もない。学校もスーパーも郵便局も銀行も村の外に出ないとないわけであるが、村の出口にはすぐ国道が走っており、車で森を抜けて10分も走ればこの村が所属している行政区の中心に行き着く。ここも人口3000人ほどのごく小さい町、あるいは大きい村といった規模に過ぎないが、周辺に散らばるいくつかの集落に住む村人たちにとっては、とりあえずここまで来れば日常の用事はすべて済ませられる「都会」である。ドイツにこのような村は数多いが、近辺に大きい都市がなく村が孤立していればいるほど、都市に吸収されることはなく、村の人口は大きく増減することがない。多少の変化はあるものの、その土地に固有の産業に支えられて村人たちの生活が安定していることもあるが、不思議なことに子世代もそこにそのまま居つくことが多いのだ。大学に進学して村を出ていく若者以外は、行政区の中の学校を卒業したら大抵そのまま同じ行政区の中に就職先を見つけ、人間関係も同じ土地出身同士で結び、結婚すればどちらかの親の地所に別棟を建て、あるいは親の家を相続して家庭を作っていくのである。ある意味、一つの小さい行政区の中で個人の生活も人生も完結していくのだ。こんな寂しい、閉鎖的な空間に閉じ込められて息苦しくないのかと思うのは都会人の発想であり、自分が生まれた家に今も尚住み続け80年を生きてきた義母にとっては、この村と、そして車で片道10分の行政区の中が自分が安心して穏やかに生きられる完璧な世界なのであろう。


だが昨年春、コロナ感染が全国の問題となって以来、村の生活にも大きい変化が訪れる。村の中には店舗も会社もないので通常でさえ外から入ってくる人間がおらず、もともと人通りも車の通りも少ない中、昨年来コロナ感染対策で村人同士の行き来も控えるように言われ、また村人たちにとって唯一の集会所であった教会もその隣の料理屋も全国ロックダウンの間は閉鎖せざるを得なくなる。私の義父母は幸い二人揃って健在なので一人っきりになることはなかったのだが、普段なら毎日のように会っていた近所の子世代、孫世代とも顔を合わせられなくなり、家の中で終日一人きりで過ごす村人が増えた。街中ならそれでも外の人声や騒音が自動的に耳に入り、窓からは通行人の姿も見える。だが普段からひっそりとした村は、コロナ禍にあっては更に人通りが絶えて、「車も全然通らなくなってしまった」と義母は嘆き、せめて日曜の礼拝だけは早く再開してくれないかと待ち望むようになる。それから一年経ったもののまだまだコロナ第三波でドイツ中が息を潜めていた今年早春のある日、義母が弾んだ声で電話をしてきた。「トランペット演奏が始まったの」と言う。何の話?と聞く私に、「ほら、あの十字架、知っているでしょ、あの十字架の隣で、シュテファンがね、毎日夕方になると一人でトランペットを吹き始めたのよ」と義母は説明する。シュテファンというのは私は顔を覚えていなかったが、近隣の複数の村で作っているブラスバンドに所属してトランペットを吹いている、この村に住む若者だ。この若者が、コロナで人との接触が絶えてしまった村人たちにせめて一日一回音楽を届け、その時間を皆で共有しようと、夕方決まった時刻に十字架の隣に立ってトランペット演奏を始めたのであった。一週間ぐらい経ったところで、この若者にもう一人クラリネットの若者が合流するようになったとも聞いた。雨が降らない限り毎日続けられたこのミニコンサートは、村人たちにとっての大きな楽しみとなる。そしてフランクフルトという都会に住む私には、村という共同体の強みをはっきり心に刻む出来事となった。

 

コロナ時代の共同体の強みということでは、もう一つ義母をめぐるエピソードがある。先月6月初旬に義母は80歳の誕生日を迎えた。ドイツ人はいくつになっても誕生日を祝い、特にゼロがつく切りのいい誕生日は、家族、親戚、友人を何十人も招待して大きいパーティーを開く習慣がある。今年義母も大きいパーティーを開くつもりで楽しみに準備していたのだが、室内で大勢が集まることはまだ禁じられ、断念せざるをえなくなった。だがパーティ―に招く招待客以外にも、村人たちは互いの誕生日を知っていることが多く、彼らは村の誰かが誕生日を迎えるとその家に挨拶に行くのが風習になっている。毎年義父も義母も、自分の誕生日には何人もの村人たちが挨拶にくるであろうことを想定して、その日は家のドアを開けっぱなしに解放し誰でもいつでも入って来れるように準備しておく。挨拶に来る村人たちは花やチョコレートの箱、あるいはカードに5ユーロ、10ユーロ(1000円前後)といった紙幣を忍ばせて、お祝いの言葉と共にそれを渡しては帰っていく。あるいは、キッチンに座って義母が用意したサンドイッチやケーキをつまんだり、義父とビールを飲んだりして小一時間ほどおしゃべりをして帰っていく。今年はコロナだから挨拶に来られてもうちの中には入ってもらえないと考えた義母は、この行政区で発行している村の日刊新聞に前もってアナウンスを出したのだと言う―「今年はコロナでおもてなしもできませんので、私の誕生日のご挨拶はご遠慮させて頂きます」。ところが当日、例年より多くの人々が義父母の家を訪ねてきたのだ。全員がこの同じ村の住人、あるいは同じ行政区の近隣の村の住人たちであったのだが、彼らは新聞のアナウンスを見て逆に、ああ、今日はあの人のお誕生日かと思い出し、コロナでしばらく会えなかったからこれを機会にご機嫌伺いしようと思ったのであろう、その数がいつもに増して多かったということだ。彼らは皆家の中には入ろうとせず、外の道に車を停めて戸口で義母に挨拶し、花束を渡して帰っていったという。その夜私は電話で義母の嬉しい悲鳴を聞いた―「想像してみてよ、今日は私は一日中戸口に立っていたようなものなのよ、ひっきりなしに誰か来るんだから。で、家の中はお花畑になっちゃったわ、みんなが花を持ってきてくれたから。あんたたちにも見せたいわ」。そして翌日義母はまた、村の新聞社にアナウンスを依頼したのであった―「私の誕生日にこんなにも大勢の方々が示して下さったご厚意に、心からお礼申し上げます」。ドイツ全国に沢山ある小さい村のあちこちで、コロナ時代にこういう楽しいエピソードが繰り広げられているのだろうなと考えると、私は少しわくわくした気分になる。 

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