キリスト教の名に相応しい政党?
目下ドイツでは、またもコロナのマスクをめぐる事件がスキャンダルとして注目されている。(過去のマスクスキャンダルについては、2021年3月13日付記事「政治家スキャンダルの顛末」参照)発端は、最近になって報道誌Spiegelが暴いた昨年の出来事であった。それは次のような話である― CDU(キリスト教民主同盟)の政治家イェンス・シュパーン連邦保健相のもとで連邦保健省は昨年春、コロナ対策用に大量のマスクを中国から購入し、その費用は総額10億ユーロに上ったと推定されている。この時点で、特に医療・介護関係者が必要とするマスク製造が国内で追いつかなかったために急遽中国から仕入れたのであるが、この中国製マスクはEUの安全基準を満たしておらず、従ってそのままで流通させるわけにはいかなかった。そのため、このマスクについては使用前に国内で改めて品質検査をする必要が生じたのであるが、その間に国内でもEU安全基準をパスするマスクが次々登場し、結果的に大量の中国製マスクが連邦保健省の手元に残ってしまったのである。このマスクの行先に困った保健省が考えたのが、これらのマスクを特別支給品として障碍者施設とホームレス支援組織に無料配布するというアクションであった。だが、当時マスクの安全管理を引き受けていた連邦労働省が反対し、この計画が実行に移されることはなかった。結果、大量の中国製マスクは今でも国の備蓄品保管庫に眠っているということで、マスクの安全使用期限が過ぎたら廃棄される予定という。この話が明るみに出るやすぐに騒ぎ始めたのが、CDUと連立して政権を担っている与党SPD(ドイツ社会民主党)である。「われわれの社会の中で最も助けを必要としている層に配ることで、質の悪いマスクを処分しようとするなどというのは、これ以上ないシニカルな態度であり決して受け入れられない。」(SPD政治家)。そして野党も一斉にこれに続いた。「連邦政府は、どの人間の命と健康も同価値であり、自らの過ちを隠蔽するために一部の人間の命や健康をもて遊んではならないという点で、国民に疑念を与えるようなことをしてはならない。」(緑の党政治家)「連邦保健大臣は、(無価値のマスクを大量に買うという)自分の失敗を隠すためには、障碍があったり社会的なハンディキャップを負っている人間の健康はどうでもいいと考えているらしい。」(左党政治家)「役に立たぬマスクの大量注文から始まり、今明るみに出されたシュパーン保健相の行動は氷山の一角なのではないかという印象がある。今回の成り行きは徹底的に調べ上げられねばならない。」(自由民主党(FDP)政治家)政界だけではない。特に弱い人間の立場から社会の公平や保障のあり方を政府に助言している社会連合からも、同様の批判の声が上がった―「価値のないマスクをよりにもよって社会の中で最も弱い立場の人間に配ろうとするなど、人間をとことん蔑む発想からしか生まれない。」こうしてシュパーン氏は目下、十字砲火を浴びせられているのである。
もちろんシュパーン氏自身も連邦保健省も、そしてCDUも反論はしている。反論の中心に置かれたのは、「これらのマスクは決して役に立たぬものではなく、保健省の指示できちんとした国内検査がなされ、感染予防に役立つことが判明しているマスクだ」という点である。その上であちこちの施設に無料配布しようと考えたのは、あくまでそこで生活している人々の健康を守るという目的以外の何物でもない、というわけだ。更にCDUはSPDに対し、連立与党として自身直接関与してきたこれまでのコロナ対策を、今このようないいがかりをつけることで自ら貶めている、との批判の声を高めている。メルケル首相を中心にCDUは今一体となってシュパーン氏を擁護しようとしており、「無料配布しようとしたマスクが感染防止に役に立たぬマスクである」という批判側の論点に全く根拠がないことを主張している。もし決して使用できぬほどに質の悪いマスクであれば、国の備蓄品保管庫に置かれるわけはなくすぐに処分されるはずだ、とりあえずそこに保管することは連邦政府全体で決めたことであって、SPDもこの決定には関わったではないか、というのである。こうしてCDUは、政権パートナーのSPDが今この話をあげつらってCDUを攻撃しているのは、ひとえに選挙のための点数稼ぎに過ぎないと断じている。このあたりから二つの与党間の争いは泥沼化し、同時に私の関心外となったのであるが、では今回の問題で私個人の関心に引っかかったのは何かというと、最初の時点でSPD党首のノルベルト・ヴァルター‐ボルヤンス氏がシュパーン氏を批判して述べた次の発言である―「保健相が人間を二等級に分ける、つまり品質検査をパスした良質なマスクを要求できる人間と、命を脅かすことになるかもしれぬ質の悪いマスクで十分だとされる人間の二等級に分けるなら、それは人間の尊厳を踏みにじり人間を蔑む行為だ。シュパーン氏のこのスキャンダラスなやり方が、キリスト教の名を冠した政党に相応しいものかどうかを、CDUは問い直さねばならない。」だが実際のところ、CDUやCSUの政党名に付されている「C」(注:
「christlich(キリスト教)」の略)は、これらの政党にとって一体どれほどの意味を持っているのだろうか。
過去に遡るが、2015年にシリアを中心にドイツを目指して大勢やって来た難民たちをどこまで、どのように受け入れるかをめぐりドイツ国内で大いに揉めた時、とにかくまずは受け入れることを決めたメルケル首相に最後まで反対し、その後も批判し続けたのは、メルケル氏のキリスト教民主同盟(CDU)と姉妹政党であるバイエルン州のキリスト教社会同盟(CSU)であった。当時このCSUの政治家たちは、私から見ると、極右政党であるドイツのための選択肢党(AfD)と一部変わらないように思える発言(「イスラム系難民をこれ以上入れるな」)を繰り返しており、この時私はドイツ人の友人に、「キリスト教」という名前がついている政党が、これほどに困窮している難民を助けないなどということがどうしてあり得るのだ、と聞いたことがある。この時その友人は、キリスト教的価値なんていうのは政党がその時々の政策に利用できると思った時に引っ張り出して来るものであり、普段政治家たちは自分たちの党の名前にキリスト教がついていることなど思い出しもしないよ、と答えた。本当にそうなのかはともあれ、CDU設立以来の歴史的な流れを振り返ると、この政党にキリスト教の「C」が付いたその経緯からして、日本人が「キリスト教の政党」という言葉から連想する姿とは大きくずれていることが分かる。(注:以下は、欧州現代史を専門とする歴史家でポツダム大学の歴史学教授でもあるフランク・ベッシュ氏が、インタビューに答える形でCDUの「C」の意味について解説した番組“「C」は拡大解釈できる”(2020年6月21日Deutschlandfunk
Kulturより)の内容に依拠している。)CDUもCSUも戦後すぐの1945年にそれぞれ結成されるのだが、この時に党の名前にキリスト教の「C」を入れた理由は、ひとえに、ナチスの国家社会主義はもとより共産主義や社会主義の独裁が今後生まれる可能性を絶つためであったという。そしてこの時この二つの政党にあっては、カトリックとプロテスタントの違いが止揚されるのであるが、これは欧州他国の政党には例のない特異な一歩であったとベッシュ氏は語っている。いわば共産主義に対抗するために、カトリックとプロテスタントの違いを超えて両宗派共が「C」のもとに統合されたのであるが、それというのも当時のドイツでは、ごくごく少数の無宗教者を除いて国民のほぼ全員がキリスト教徒だったからである。CDUもCSUも、「カトリックとプロテスタントの違いを超えて、すべてのキリスト教徒のための政党である」ことを旗印にしたかったのだ。CDUの最初の党首であり、戦後西ドイツ初の首相となったコンラート・アデナウアー氏自身はカトリック教徒であったが、党結成の当初からCDUでは、党の重要ポストにカトリックとプロテスタント双方の党員がバランスよく就くよう配慮がなされたという。だがその一方で党の基本方針、いわゆる党の綱領の中でCDUの政策とキリスト教の関係が明らかに定義されることはなかったというのは、驚くべきである。つまり「C」は、ほとんどすべてのドイツ国民を傘下に入れるための、一つの「大きな屋根」の役割を果たす以上のものではなかった、とベッシュ教授は解説している。その後、後に長期政権を担うことになるヘルムート・コール氏がCDU党首であった時代(1982年~1998年)に、CDUはようやくその綱領の中で「C」の意味を明らかにするのだが、そこでは次のように定義された― 「CDUの出発点となっているのは、キリスト教的人間理解である。」え、それだけなの?と思うが、おまけにこの時の党綱領の中では、「CDUは、すべての人間の尊厳と自由、そしてそこから生まれるわれわれの政治の基本理念に賛同する人間全員に対して門戸を開く」と明記され、こうしてCDUは事実上1970年代に、当時ドイツで増えつつあった教会を離脱した人間、あるいはキリスト教以外の信仰を持つ人間をも受け入れる政党となったのである。
ベッシュ教授によるこの解説を聞く限りでは、CDU/CSUの「C」にはそれ以上深い「キリスト教的」意味はなさそうで、その点ではどうやら私の友人が言ったこともただの皮肉ではないようだ。それでも折に触れドイツの政治家たちは、今シュパーン保健相を非難する発言にも使われるように、「キリスト教的価値」を前面に出して何かを主張することがある。今回のスキャンダルにあっては、キリスト教を持ち出さなくても単に「人道的」と言えばいいんじゃないの、と私などは思う。今回本当に連邦保健省が、「ホームレスの人たち用なら、感染防止効果がなさそうなマスクでも十分だ」とでも考えたのなら、キリスト教を持ち出すまでもなく人の道にはずれた恥ずべき発想なのであるから。私自身について言えば、政治家がキリスト教やキリスト教的価値を口にするのを聞いて頭の中に警戒の赤信号が灯るのは、彼らがこれらの言葉をドイツ国内のイスラム教徒市民に対置させて使う時である。
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