たかがサッカー、されどサッカー

オリンピック開催の是非で騒がしかった日本とは全く異なり、これまでドイツ国内で今年の東京オリンピック開催が公の議論になったことは全くと言ってよいほどない。開催するかしないかというのはあくまで日本国内の問題であり、ドイツが口出しすることではないということであろう。おまけに目下欧州では、4年に一度のサッカー欧州選手権“UEFA Euro 2020”が佳境に入ってきており、オリンピックどころではないのである。オリンピック同様この大会も1年延期されたのであるが、611日、“UEFA Euro 2020”は無事開幕し、以来ドイツではほとんどすべての試合がテレビ放映され国民を熱狂させている。すでに予選リーグは終わり、先日いよいよ決勝トーナメントに入ったところなのだ。欧州もいまだコロナ禍にあるとはいえ、テレビを見ている限り大会はいつもと変わらぬ盛り上がりを見せている。だが実際には、すべてのスタジアムで観客数は制限されている。偶然であったが、今回の大会はもともと開催60周年記念大会となることから、従来のように開催国を1か国、あるいは2か国には絞らず10か国11都市で開催することに決まっていたことが、コロナ時代には好都合であった。選手、報道陣、それに大勢の観客が特定国に集まることが避けられたのである。それでも、「数は制限しても観客を必ず入れること」とUEFA(欧州サッカー連盟)が開催国に義務付けたために、コロナ感染者数の抑え込みがうまく行っていない国や都市が今春時点で開催を断念し、他国・他都市と入れ替えられるというエピソードもあった。そして最終的に決定した10か国11都市のスタジアムですでに行われた試合を見れば、入場許可された観客の数が都市によってまちまちであることがわかる。圧倒的に空席の方が多いスタジアムもあれば、一見ぎっしりと観客で埋まっているかのように見えるスタジアムもある。その国の予防注射の進行具合と大いに関係ありと思われる。決勝トーナメントに入った現時点で心配されているのは、大会のクライマックスとなる準決勝2試合(767日)と決勝1試合(711日)の開催地に決まっているロンドンのコロナ感染状況である。英国は目下、予防注射を1回しか終えていない人がインド型変異ウイルスの感染源になるケースが増えているようで、再び感染者数が増加しているところなのである。場合によっては、土壇場で何かしらのルール変更があるかもしれない。

 

コロナ以外にも、今大会は開幕直後から「事件」が続いた。デンマークチームの選手が一人、試合中にいきなり心臓麻痺を起こしてその場で生死の境をさまようことになったり(幸いこの選手は無事救急搬送されて命をとりとめた)、あるいは、過激で知られる環境保護団体Greenpeaceが飛行禁止のスタジアム上空にパラモーター(注:一人用のモーター付パラシュート)を飛ばし、そのパラモーターが飛行トラブルで試合中のフィールドに落ちてしまうという事故もあった。これはミュンヘンのスタジアムでドイツチームの予選第1戦中に起こった事故であるが、飛行していた人間は無傷であったがパラモーターが頭上をかすめた観客の中に二人の軽傷者が出る騒ぎとなった。Greenpeaceの意図は、大会スポンサーの自動車メーカーVWVolkswagen)社による環境汚染への抗議運動だったようで、本来はスタジアム上空から抗議文が書かれた風船を落とす計画であったという。だがこの2件のトラブルにも増して大きな事件となったのは、同じミュンヘンのスタジアムが舞台となった「レインボーカラー事件」である。七色のレインボーカラーはもう長らく、その多彩なバリエーションから性的指向及び性そのものの多様性、つまりLGBTのシンボルカラーになっている。最初はまず大会直前に、ドイツチームのキャプテンでありゴールキーパーであるマヌエル・ノイアー選手が、キャプテンの腕章にこのレインボーカラーを使い始めたことが話題になった。本来キャプテンの腕章はUEFAが指定したものを使うというルールになっているらしく、これはルール違反なのである。だが、サッカーの世界選手権を主催するFIFA(国際サッカー連盟)同様にUEFAでも 、“Say No to Racism(人種差別に反対)”を選手、チーム、大会関係者全員の共通モットーに掲げており、LGBTへの差別を無くそうというアピールもこのモットーの範囲内にあると理解できるということで、UEFAはこれを黙認することを決めた。だがその後、ドイツチームの予選第3戦となった対ハンガリー戦の当日623日に、会場となるミュンヘンのスタジアムの外観をそっくり七色のレインボーカラーで照らすことへの許可をミュンヘン市が申請した時には、UEFAは拒絶した。そしてUEFAのこの禁止決定が、その後事態を思わぬ方向に発展させるのである。

問題となったミュンヘンのサッカースタジアムは、ドイツのブンデスリーガ最強のサッカーチームFC Bayernのホームスタジアムだ。このスタジアムには建物の外面全体に数十万個のLED(発光ダイオード)が填め込まれており、あらゆる色で巨大な建物全体を輝かせることができる仕掛けになっている。FC Bayernが試合を行う日は赤に、ドイツ・ナショナルチームが試合を行う日は国旗の三色カラーに、あるいはサッカー以外でも、たとえばアメリカ合衆国の独立記念日は星条旗の色になど、特別な日にはそのシンボルカラーにスタジアムを輝かせることで、このスタジアムはこれまでもメディアの注目を浴びてきた。ドイツでLGBTの権利を主張するために毎年1回全国デモが開催されるChristopher Street Dayに、このスタジアムはすでにレインボーカラーに輝いたこともあり、七色にするのも初めての話ではないのだ。だが、今回の対ハンガリー戦でまたこの色の照明をつけたいというミュンヘン市からの申請を、UEFAは、「われわれサッカー連盟は、政治的、宗教的に中立の立場を保たねばならないから」という理由で却下したのである。この申請の何が「政治的」なのかというと、ハンガリー戦でドイツがLGBTのシンボルカラーを使いたかったその裏には、実はミュンヘン市、あるいはバイエルン州、更にはドイツ連邦政府の十分に「政治的」な意図があったのである。最近ハンガリーでは、議会である法律が可決された。この法律は、LGBTについての情報(小説、映画も含む)を流すことを禁じこれについて青少年が学び知る権利を制限する、という内容のもので、LGBT嫌いで知られるオルバン大統領の与党が極右政党の協力を得てこの法案を議会で通すことに成功したのである。ハンガリーのオルバン政権はこれまでも国内のLGBT運動を弾圧してきたことで知られ、EUがハンガリーの民主制を大いに憂慮する理由の一つになってきた。今回の法についても、EUのフォン・デア・ライエン委員長はすぐに「ハンガリーのこの法律は恥(shame)だ」とのコメントを発表し、同じ頃ドイツの連邦政府もハンガリー政府を批判する公式声明を出している。そんな時に丁度ドイツナショナルチームがミュンヘンで当のハンガリーのチームと対戦することになったため、ミュンヘン市はこれを機に、ハンガリー政府のLGBTに対する姿勢をドイツは批判するというメッセージを、レインボーカラーを使って発信しようとしたのである。従ってこのアクションには明らかにドイツの「政治的」メッセージがこめられていたわけで、UEFAがこれを禁じたのもやむを得なかったとは言えるだろう。

 

だが、UEFAがミュンヘン市の申請を却下した直後から、ドイツでは思いもかけぬ大きな反響が起こる。政治家も、サッカー関係者も、そして一部国民もUEFAへの批判と失望を露わにしたのである。そしてまずは、ミュンヘンが駄目ならその同じ日にミュンヘンの代わりに自分たちがレインボーカラーの照明を使うと名乗りを上げたスタジアムがいくつも出てきて、実際にこの日はドイツの他の都市で、レインボーカラーの照明に映えるサッカースタジアムがいくつも見られることになった。そして当のミュンヘンでも、スタジアムが駄目ならその隣でと考えたらしく、近隣の風力発電機がこの夜虹色に染まった。更にこの日の試合にやって来た観客たちには入場時にレインボーカラーの旗やマスクが配られて、スタジアム観客席に虹色が増えるなど、結果的にUEFAが禁止したせいでこの日ドイツ国内のLGBT擁護運動はかえって大きく広まることになったのである。この日の試合の最中には一時かなりの量の雨が降ったのだが、その直後にもし空が晴れ上がって本物の虹が架かったならこのアクションは完璧だったのに、と残念がる声も聞こえた。こうして今回は、ハンガリーでの新たな法律の出現とハンガリーチームの試合が重なったことから“Euro 2020”大会の枠内での運動となったのであるが、もともとLGBTはスポーツ界で最も多く話題に上る。米国でもよく問題になるようだが、男性のスポーツ選手がLGBTであった場合、特に一般に男性的な激しいスポーツというイメージが定着している種目において、選手はその事実を隠し通さねばならないのが現実なのだ。世に知られれば中傷と差別の対象になり、最後には選手生命を絶たれる不安さえ彼らは感じていると言われ、だからこそスポーツ界でこそ大きな声が上がって来なくてはならないのである。そしてスポーツの中でサッカーが断然集客数が多く注目度も高いドイツでは、サッカーこそがこの種のメッセージを乗せるのに最も適している。今回の大会をきっかけに、ハンガリー政府批判という面はなしにしても、レインボーカラーはますますサッカー場面で登場することになるであろう。たかがサッカー、されどサッカー― ドイツにおけるサッカーの力は、日本人の想像をはるかに超えているのである。 

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