イスラエル批判と反ユダヤ主義の境目

510日、パレスチナ自治区ガザからエルサレムにロケット弾が発射されるや、あっという間にイスラエルとパレスチナの武力衝突はエスカレートした。その後しばらくドイツでは、このニュースが日々の報道のトップに躍り出て、コロナ関連ニュースはかなり後方に追いやられた。ドイツにとってこのイスラエルとパレスチナの争いは、決して対岸の火事ではない。515日にはベルリンとフランクフルトで、パレスチナ側に立つイスラム教徒市民たちによる反イスラエルデモが発生し、特にベルリンではデモ隊と警官隊が衝突して怪我人や逮捕者が何十人も出る騒ぎとなった。だが今ドイツが警戒しているのは、デモが平和な形から逸脱して暴力騒ぎになることではなく、イスラエルの行為に怒るイスラム市民たちが容易に反ユダヤ主義(Antisemitismus)に転じ、ユダヤ人への憎悪に駆られてドイツに住むユダヤ人市民に対する盲目的な攻撃に発展する危険なのだ。実際に、イスラエルとパレスチナ双方からの攻撃がエスカレートしてきたこの数日のうちに、すでにドイツ国内の複数の都市で、反イスラエルのデモ隊がイスラエルの国旗を燃やしつつ反ユダヤ主義のスローガンを掲げて大勢でシナゴーグに押し掛けようとする危険な動きが確認されている。

 

ドイツの政治家は、反ユダヤ主義の動きには非常に敏感に反応する。514日、メルケル首相は次のコメントを発表した―「連邦政府は市民のデモの権利を尊重するが、ユダヤ人への憎悪をむき出しにするためにデモを利用する者は、デモの権利を濫用している。われわれの民主主義は、反ユダヤ主義を決して認めない。中東紛争でのイスラエル政府のやり方への批判を口実に、ドイツのユダヤ人市民とユダヤ教施設を攻撃するようなことは決して許されない。」この日ドイツ連邦大統領のシュタインマイアー氏も、同じようなコメントを発表している―「ドイツ国内にいるユダヤ人市民を威嚇し、ドイツの街にあるシナゴーグを攻撃することを正当化する口実はない。・・・ドイツの町角でダビデの星の旗を焼いたり反ユダヤスローガンをがなり立てる者は、デモの自由の権利を濫用しているだけではなく、犯罪者として罰せられねばならない。」これに続きどの政党の政治家も(今回は、反イスラムの極右政党AfDも例外的に同調している)、反ユダヤ主義に走るイスラム教徒市民たちのデモを糾弾した。「イスラエル国家の存在権利を否定し反ユダヤ主義的発言をする者は、まずは自身が、すでにこの点で共通の認識が出来上がっているわれわれの社会の一員でいられるのか、いるつもりがあるのかを自問すべきである」(自由民主党政治家)、「共にベルリンで生きるための基本ルールに違反する者は、よそに行くことを考えるべきだ。こういう人間の居場所はドイツにはない」(キリスト教民主同盟政治家)、「この種の暴力は決して受け入れられるものではなく、これに対しては法的措置が取られねばならない。イスラエルやユダヤ人へのむき出しの憎悪に駆られて通りに出て犯罪行為に走るものは、法により徹底的に処罰されねばならない」(緑の党政治家)など、この数日のうちに多くの政治家が異口同音に批判を述べていた。反ユダヤ主義に対しては、ドイツは一貫して徹底的に厳しい態度を取る用意があるのである。

 

しかしながら、イスラム教やユダヤ教について知識もなければ馴染みもなく、そのどちらからも遠い立ち位置にいる身からすると、判断の材料は今起こっている事柄しかなく、私が今回の事件について最初に抱いた感想は「イスラエルはえげつないことをするな」というものであった。もちろんイスラム原理主義武装テロ組織であるハマスの肩を持つつもりはない。だがパレスチナ問題の難しさは、どこまで歴史を遡り、どこを出発点として見るかでイスラエルとパレスチナ、どちらに非があるかがころころ変わることである。今回の衝突にしても、ロケット弾を最初に発射したのはガザであるが、その直前にイスラエルは東エルサレムのパレスチナ人居住区から住民たちを強制的に立ち退かせていた。更にパレスチナ人を挑発し、それが彼らの聖地であるアル・アクサ・モスクでの両者の衝突に発展、ここではパレスチナ側に300人もの怪我人が出たことが報道されている。攻撃が始まったのはこの後なのである。また、軍事力で絶対的優位に立つイスラエルが本格的攻撃を始めれば、パレスチナ側の市民に死者が大勢出ることは火を見るより明らかであるにもかかわらず、ネタニヤフ首相は手加減するつもりがないことを宣言した。この経過を知り、それでもこの争いで一方的にイスラエル側に立つならば、その人間は最初から偏ったイデオロギー持つ人間であろう。ドイツも決して国家として無条件にイスラエル側に立っているわけではない。これまでメルケル政権も一方では「イスラエルの安全はドイツの絶対原則(Staatsräson)である」と表現し、イスラエルが一方的に攻撃されれば必ずイスラエルの側に立つことを明言してきた。だが他方でドイツは国連の判断に倣いイスラエルの入植政策を認めず、一貫してこれを批判してきている。(注:入植政策とは、1967年の第三次中東戦争で勝ったイスラエルが、この時占領したヨルダン川西岸で進めている入植活動のこと。これを国連は、ジュネーブ条約に照らしてイスラエル側の国際法違反と断じている。この政策には、次々入植し住みついてしまうことで、和平の話合いによる公平な分配を待たずにそのまま自分の占有にしてしまおうというイスラエルの意図がある。)両者の争いにおいてはドイツはあくまで仲介者として公平な立場に立とうとしているわけだが、ホロコーストの過去から何か発言するにもどうしても控えめとならざるを得ないドイツが、果たして仲介者として適任であるかには賛否両論あるようだ。520日、何とか休戦に持ち込むための米国、国連安全保障理事会、そしてEUの動きが注目される中、ドイツの連邦外務相ハイコ・マース氏もイスラエルとパレスチナ双方との話し合いのためにテルアビブに向かった。この日マース氏はまずはネタニヤフ氏に会い、ドイツの「無制限の連帯」を約束し、休戦を要請しながらもイスラエルを批判する言葉は一言も発せずに「イスラエル国家の安泰とドイツに住むユダヤ市民の安全は、ドイツにとって交渉の余地のない絶対の事柄であること」を請け合ったことが報道された。この夜ネタニヤフ首相は休戦を決め、521日現在、とりあえずそれは守られている。

 

ドイツには、イスラエル批判をするのになんとなく躊躇ってしまう雰囲気がある。イスラエル政府のやり方は汚いなあと思っても、それをドイツで口にするのはなんとなく憚られるのである。反ユダヤ主義とまではいかなくとも、ユダヤ人に反感を抱いているのではないかと疑われることを危惧するからだ。アムステルダムにあるAnne Frank Houseは、‟アンネの日記”の著者アンネ・フランクの生涯を展示するとともに、反ユダヤ主義、民族差別主義、極右勢力を研究している機関であるが、ここでは「イスラエル批判は反ユダヤ主義か(Ist Kritik an Israel antisemitisch?)」というテーマにも取り組んでいる。公表されている文章の中にはたとえば次のような箇所がある―

「イスラエルへの批判、イスラエル政府による政治決断への批判がすべて反ユダヤ主義というわけではない。たとえば、パレスチナ人居住区に対するイスラエル政府の政策を否定し、批判することは誰にでも許されている。イスラエル国内にすらこのような批判はあるのだ。更に反イスラエルを掲げる抗議運動や、あるいは親パレスチナの立場からの擁護運動も即ユダヤ民族への憎悪の表現であるわけではなく、従ってこれらが即反ユダヤ主義の変形というわけではない。理屈の上では、イスラエルの国とその周辺で起こるすべてについて、誰でも異なる意見を持つことが許されるべきだ。・・・だが実際には‟シオニズム”についての議論、あるいはイスラエルについて普通に批判的な討論をすることは、ますます困難になりつつある。それぞれ立場が固まってしまっており、すぐに感情がエスカレートするからだ。・・・」

ここまでは良く理解できるのであるが、Anne Frank Houseでは、たとえばどういうイスラエル批判の形が反ユダヤ主義とみなされるかについて、次のような例を挙げている―

「イスラエル批判は、反ユダヤ神話や反ユダヤの象徴と結び付けられてなされることが多い。侮辱的で悪意溢れるカリカチュアがそれだ。金持ちのユダヤ人を表現するカリカチュア、世界中どこでも背後に隠れて糸を操っているイスラエルの姿などである。この種の表現を用いたイスラエル批判は、過去の迫害、ホロコーストの記憶を呼び覚ます。これはもう反ユダヤ主義の長い歴史にぴったり当てはまるものである。」

確かに風刺画にも超えてはいけない一線があるのだろうが、2015年にフランスで起こったイスラム過激派による風刺雑誌シャルリーエブド紙編集部襲撃事件以来、脅迫やテロに屈しない表現の自由、芸術の自由は大きく注目されるようになった。テロ行為が許されぬことは当然であるが、これを脇に置いて風刺画にだけ注目するなら、このシャルリーエブド紙もかなりきわどい「侮辱的で悪意溢れる」イスラムのカリカチュアを描き続けていた。今、ムハンマドのカリカチュアは表現の自由の範囲であり許されるがユダヤ人のカリカチュアは駄目、というのであれば、そこには、ナチスの犯罪の犠牲となったユダヤ人は特別に扱われねばならぬという暗黙の了解があるように思える。ナチスは、当時のドイツ社会にこの種のカリカチュアを広めユダヤ民族全体への偏見を作り上げた上で、あの犯罪を行ったからである。

 

そしてその犯罪の地であるドイツでは、イスラエル政府批判(ユダヤ人批判ではない)をするにも他のどこよりも気を遣わねばならないのは致し方ないことなのであろう。ドイツの憲法である基本法には、今のところ直接反ユダヤ主義に言及しこれを禁ずる条文はない。だが201910月にハレ市で起こったシナゴーグ襲撃未遂事件(注:ユダヤの祝祭儀式中のシナゴーグに一人の極右派ドイツ人が押し入り、集まっていたユダヤ人を殺害しようとしたが、たまたましっかりと閉ざされていたシナゴーグの扉を開けることができず未遂に終わった事件。ただし、近くにいた市民二人が巻き添えになり殺害された)以来、基本法にも反ユダヤ主義に対するドイツの厳しい姿勢を定める条文を盛り込むべきであるとの議論が活発になってきている。一方連邦及び州の法律の中では、反ユダヤ主義とみなされる発言や行動が具体的に定義・規定され、幾重にも禁じられている。それに依拠すれば、シナゴーグの落書き一つでもそれが単なるイスラエル政府批判なのか反ユダヤ主義的行為なのか判定できるらしい。そして今回、中東紛争がイスラム市民による反ユダヤ主義デモとなって飛び火したドイツでは、今、反ユダヤ主義を取り締まる法律をもう一段厳しくすべきだろうかとの議論が始まっている。どうやら、法律にも中東問題にも疎い私のような門外漢は、ドイツにいる限り、もはやイスラエルについては迂闊に口にしない方がよさそうである。 

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