自由か、平等か

 共産主義独裁体制下にでもない限り、われわれは「自由と平等」をセットで言うことに慣れている。民主主義や基本的人権が浸透した社会で、まさか「自由」と「平等」が対立する概念として問題を投じてくることがあろうとは、通常であれば想像しない。だが新型コロナは昨年以来「通常」をひっくり返してきたのであり、つい先日までドイツでは「自由か平等か、どちらを優先させるか」という議論が注目の的になっていた。これは、新型コロナの予防注射をめぐる話である。

 

このところドイツでは予防注射のスピードが加速しており、それに伴って新感染者数も日々減少、明るい出口が見え始めてきたところである。一月前、4月半ばにはまだ2万人どころか3万人を超えることすらあった一日の新感染者数が、5月に入って1万人台に落ち、その後ほとんど毎日減少を続けている。あちこちに作られた予防注射センターに加えて、4月上旬からは一般医院(ホームドクター)での予防注射も解禁され、またワクチンの入荷も安定してきたせいで、国民の間での接種スピードがようやく軌道に乗ってきたのである。5月の第一週が終わった時点で、少なくとも一回目の注射を終えた国民は3分の1近くに上った。同じ時点で二回目の注射も終えた国民は、9%強というところであった。今はまだ年齢や職業ごとに国民をリスクグループに分け、順番に注射の予約を取っている段階であるが、今後はワクチンの入荷状況を見ながら、早ければ来月6月から年齢に関係なく誰でも注射の予約が取れるように全員に門戸を広げることが計画されている。連邦保健省は8月、遅くとも9月中には、予防注射を望むドイツの成人全員が二回目の注射も終えていることを目標に掲げている。さて、予防注射が順調に進み始め、特に二回目の注射を終えた人の数が増えるにつれて政界の議論のテーマに上ってきたのは、「これまで様々に制限してきた基本的人権を、注射を完全に終えた人から順番に‟返却”すべきかどうか」であった。今振り返るとドイツでは、新型コロナが登場して以来実に様々な議論が生じてきた。コロナ対策と民主主義の折り合いの悪さ、連邦制の欠点、EU内の連帯の問題、倫理的観点からの予防注射順番決め議論など、政治家ばかりでなく国民の多くが一言意見や文句を言いたくなる場面がこれまでにも数多くあったのである。そして今回、連邦政府はまた内閣決議にまで時間をかけることになったのであるが、答えを出すべき問いとは具体的に次のものであった―「予防注射をすでに二回終えた人、及び一度新型コロナに罹患したが全快したためすでに抗体を備えている人は、たとえ自分が感染しても重症化するリスクは少なく、また他人を感染させるリスクも小さいのであるから、彼らはコロナ対策の様々な制限の対象から直ちに外すべきではないか。」

 

ここで言われる「様々な制限」というのは、ドイツが424日から実施している通称‟連邦非常ブレーキ(Bundes-Notbremse)”措置の内容を指す。3月から公に“新型コロナ第三波”に見舞われたドイツは、第二波の失敗を繰り返さぬよう、事前に‟感染予防法”の内容を一部改正し、連邦に統一措置を取る権限を与えた。「第二波の失敗」とは、最初に連邦政府と州政府の間でロックダウンの合意を取り付けても、各州政府とも結局はその時々の自州の状況を鑑みて勝手に緩和を始め、その結果全国の感染状況がなかなか好転しない状況に陥ったことである。つまり、全国統一内容の制限措置を一斉に取る必要に迫られて決めたのがこの‟非常ブレーキ”措置であった。その内容は、①夜間22時~翌朝5時までの外出禁止(例外はあり)、②生活必需品以外の店舗の営業は条件付き(原則的に、同日のスピード検査の陰性結果を提示できる顧客のみ入店可)、③学校は一クラスの人数を半分に制限しての交代授業、④雇用者は可能な限りHome Officeを提供しなければならない、⑤私的に人に会うのは、同世帯の人間以外一人だけ、といったものであったが、この措置の対象となる地域は、「人口10万人あたり、直近一週間の新感染者数が100人以上の自治体」であると取り決められた。つまりこれに該当する限り全国どこであれこの統一の“非常ブレーキ”措置が適用されるが、逆にこの基準値が100人以下になった時には、各自治体が自由にこの制限を緩和してよいとされたのである。だが実際には、この措置がスタートした424日時点でドイツ全国の85%以上の自治体が基準値を超えており、この制限の対象となった。この措置の内容の中で最も問題視されたのは、①夜間22時~翌朝5時までの外出禁止、であった。これまでも店舗の営業を止められたり、集会や友人と会うことを禁止されたり、あるいは特定のマスク着用を義務付けられたりと、ドイツでは市民が様々な行動の自由を奪われてきたのだが、今回の「外出禁止」令は多くのドイツ市民にとって、これまで以上に基本的人権を侵害するものと映ったのである。夜間に外を歩きたとえ誰かに会ったとしても、戸外で感染する危険がどれだけあるだろう、そもそも店がすべて閉まっている以上、大勢でたむろできるような屋内はないのに― ということで、政治家からも国民からも多くの批判や苦情が噴出したのがこの外出禁止令である。結局この条項はその後すぐに憲法裁判所のスピード審理の対象となったが、裁判所は5月に入ってすぐ「国民の命と健康を守り、かつ医療体制を維持するためには不可欠」であることを認め、まずは「違憲には当たらない」という判決を下した。詳細な審理はまだ今後も続けられ最終判決でどうなるかは分からぬものの、とりあえず今現在もまだドイツの半分以上の地域で、この‟非常ブレーキ”措置は続けられているのである。

 

少々脱線したが、ここで話を「自由か平等か」に戻そう。予防注射を済ませた人、あるいは新型コロナから回復してすでに抗体を得ている人にまで、これらの制限措置を続けて課すことは、それこそ「基本的人権の侵害」に当たるという理由で、これらの人々には一日も早く基本的人権を返すべきであるという意見が多く上がってきたのは、予防注射が軌道に乗り始めた4月後半からであった。一方これに反対する意見は、国民の一部だけに自由を認めることを不公平に感じる人々が増えれば社会の分断が大きくなる、と危惧する立場から上がってきた。制限措置の対象から外された人々は、理屈の上ではその日から自由に動け、集会も自由、店舗入店時にスピード検査結果を提示する必要はなくなり、また、地域によって徐々に営業再開されつつある飲食業や観光業、映画館などの遊興施設を他の人々に先んじて楽しむことができることになる。折しも来月から夏の休暇シーズンに入るドイツでは、予防注射を終えた人から休暇旅行の計画が立てられるようにもなる。一方、注射の順番で後回しになった若い世代は、最悪の場合8月、9月までまだ自由を束縛され続ける惧れがあり、これではあまりに不公平ではないかと苦情が出てくるのも納得できる。特に若い世代は、昨年春のコロナ第一波の時には同世代の中での感染者や死者は非常に少なかったにもかかわらず、「社会の連帯」というモットーのもとで年配者に顧慮することを強いられ、同じルール、同じ制限のもとで社会の不自由を共にしてきたのだ。その世代が今、いち早く生活を楽しみ始めた年配世代を横目に、まだまだ我慢を強いられるというのは確かに気の毒ではある。ということで、ドイツではひとしきり「基本的人権で認められている自由の返却」か、「禁止という点での全員平等」か、つまり「自由か平等か」の議論が盛んになったのである。

 

もっとも実のところ、この議論の答えは最初から明らかではあった。基本的人権を制限するに十分な理由がない限り基本的人権は制限できない、というのは、法治国家ドイツの鉄則なのである。議論をするまでもなく、新型コロナへの抗体ができており社会的にもリスクが少ない人間の基本的人権は、即「返却」しなくてはならない。基本的人権で認められている自由は、正当な根拠のないまま一日たりとも長く奪ってはならないのだ。それでも政府が内閣決議までに時間をかけたのは、倫理委員会をはじめあらゆる立場の人々の意見を広く聞くためであったのだろう。結局内閣決議がなされたのが53日、その後はトントン拍子で連邦議会と理事会を通過し、同じ週の週末からドイツでは一部の人間に優先的に、基本的人権で保障されている行動の自由を返却し始めたのである。これについては今でも時々街頭インタビューが行われては市民たちがそれぞれ意見を述べているが、若者たちはやはり不満そうだ。「仕方ないとは思うけれど、釈然としない」、「コロナでは若い世代は最初から“連帯”の名のもとで我慢を強いられてきたけれど、年配世代には連帯意識はないのかなと思う」など、どれももっともだと思える感想である。内閣決議の前に連邦政府のある政治家は、「予防注射が終わった人たちから基本的人権を返していくことで、後回しになる世代が不満を感じる点はよく理解できるが、かといって後回しにされた世代が具体的に被害を被るかと言えばそのようなことはない。彼ら自身が感じる妬みや羨み以外に、彼ら自身になんら損失は生じない。そして妬みや羨みは、基本的人権を制限し続ける正当な理由にはならない」と発言し、「平等」の方を重んじる意見に反論していた。これも正論であり、感情だけでは法には太刀打ちできない。

 

先日の日曜、青空と初夏の陽気に誘われて町境の河畔の緑地帯を友人と散歩していた。見渡す限りの緑の中、多くの若者たちがあちこちにピクニックシートを敷いて初夏の一日を楽しんでいる。5人、6人、あるいはそれ以上のグループも多い。確かフランクフルト市はまだ‟非常ブレーキ”措置の真っただ中で、世帯外の友人に会うにも一人だけという制限があったなとぼんやり考えて、「あの人たちって絶対同一世帯の家族じゃないよね」とつぶやいた私に友人は、「いいよいいよ、こんなきれいな一日を皆戸外で楽しみたいだけなんだから」と答えた。その通り、我慢を強いられている若い人たちにも抜け道は作ってあげたい。各人が‟健全な理性”で判断すればいいではないか。ちなみに‟非常ブレーキ”措置を発表した際にも連邦政府は、コントロールの方法は特段考えていない、と述べていた。

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