Brexitに続く“ワクチン戦争”-EUと英国の関係はいかに?
(2020年12月29日付「さよなら英国」の続報)
結論するのは時期尚早であろうが、ドイツでは、Brexitがもたらした悪影響のあれこれが1月半ばを過ぎて頻繁に報道され始めた。Brexitはやはり英国とEU間の貿易に暗い影を落としているのだ。「Brexitの損失」、「流通業者がかける急ブレーキ」、「北アイルランドのスーパーの商品棚は空っぽ」、「『もう欧州大陸からは何も買わない』」、「今英国人にまわってきたBrexitのツケ」・・・といった報道の見出しが毎日のように目に入ってくる。互いに関税のかからぬ自由貿易を続行するという点で昨年末両者は合意したのだが、それでももはやEU加盟国ではない英国との貿易には税関コントロールが復活し、それに伴い様々な貿易書類を整える必要が生じた。互いにこの準備が万全に整っていないまま今年初頭から税関手続きが必要となったために、時間と手間がかかるばかりではなく、税関書類の不備から通過できない貨物が続出しているのである。たとえすんなり通過できたとしても、税関手数料がかかり過ぎて販売を断念するケースもある。両者間の流通が大きな打撃を受けているのだ。ドイツでまず伝えられたのは、税関コントロールで待機を強いられる大型輸送トラックの長蛇の列と、スコットランドからのEU向け海産物輸出のトラブルであった。これまでなら同日に大陸の買い手に届けられていた魚や甲殻類といった海産物が、5日も税関手続きで留め置かれたためにすっかり腐敗してしまい、到着と同時に廃棄せざるを得なくなったという「悲劇」である。スコットランドの漁港では豊漁であっても流通に乗せることができず、獲った魚をまた海に捨てているというニュースも伝えられた。倒産の危険に瀕したスコットランドの海産物関連会社が、英国政府に賠償支援を求めるデモを展開したことも報道されている。また大陸側の運送会社の中には、積み荷の90%が税関書類の不備で突き返されることを理由に、状況が落ち着くまではEU・英国間の輸送は受け付けないとするところも出始めている。オンライン販売大手Amazonですら、英国から大陸への販売は制限し、それでも英国商品を注文する大陸の顧客には、税関手数料が非常に高くつくことを警告している。衝撃的なのは、棚がほとんど空っぽになった北アイルランドのスーパーの映像だ。英国とEUのBrexit合意で最も気遣われたのは、北アイルランドとアイルランドの間に再び国境検問が出現することの危険である。過去の紛争が再燃することが危惧されたのだ。そのため国境検問は英国本土と北アイルランドの間にずらされ、北アイルランドは英国に属するにもかかわらず、EU内市場として扱われることになったのである。その結果北アイルランドとアイルランド間に国境検問ができる事態は避けられたのであるが、代わりにブリテン島と北アイルランド間には検問が必要となった。つまり英国から北アイルランドへはEU行き同様に煩雑な輸出手続きが必要となり、特に食料品の流通が一時中断されてしまったのである。こうして現在、Brexitによって発生した貿易トラブルのせいでEUと英国間の貿易高は激減。London School of Economicsの専門家は、この悪影響は特に英国にとって長期化すると発表しており、その予想によると、10年後の英国のEU向け輸出高はこれまでの3分の1減になるであろうという。
この混乱だけではまだ足りないかのように、一月下旬、EUと英国間に別の新たな問題が持ち上がった。コロナワクチンを開発した英国とスウェーデンの合弁製薬企業AstraZeneca社とEUの争いである。EUは、約4億5000万人に上るEU市民のコロナ予防注射確保のために複数のワクチン・メーカーと早期契約し、その開発支援に努めてきた。そのEUにとってAstraZeneca社は、欧州医薬品局(EMA:European
Medicines Agency)の認可を得た三社目である。すでに昨年末と今年初頭に他の二社のワクチンが認可を獲得しEU各国で予防注射が始まっているのだが、1月末に三番手として認可を受けたAstraZeneca社のワクチンがこれに加わることで、EU内予防注射の普及には拍車がかかるはずであった。ところが一月下旬になってAstraZeneca社は、生産ラインのトラブルを理由に、第一弾としてEUに出荷されるはずであったワクチン総数を減らさざるを得ない旨を欧州委員会に通告してきたのである。契約上は初回出荷としてまず8000万回分がEUに届けられるはずであったのが、同社は今になって、その半分以下の3100万回分しか出荷できないと言ってきたのだ。当然のことながらEUはいきり立った。しかもその間にも同社は、英国はじめEU外他国には注文通りの数の出荷を続けているのである。AstraZeneca社側はこの事情を、EUは契約時期が他国より3か月遅かったので仕方がないと説明し、EU側の失敗と言わんばかりの態度を取った。この態度にEUはますます憤り、両者間のバトルはもはや「議論」や「論争」を超えて文字通り「喧嘩」の様相を帯びてきた。EU委員長のフォン・デア・ライエン氏にしても、公の場で同社を批判する声にこもる怒気を抑えるのに苦労している様子が見え見えであった。EUは、AstraZeneca社が本来EU向けに製造されたワクチンを他国、中でも英国に優先的に回しているのではないかと疑っているのである。出荷数にしても出荷日程にしても両者が交わした契約中には明記されており、EUはその点を指摘して相手の契約違反を非難しているのだが、AstraZeneca社側はこれについても、契約書中の文言はあくまで「それを目標にする」という意味合いに過ぎないと抗弁し、両者の間には大変危うい空気が漂い始めた。そんな中でやめておけばいいのに、ボリス・ジョンソン首相の英国政府はこの機会をとらえて、「これぞBrexitの恩恵である」と英国民に喧伝し始めた。いわく、「EUは保護貿易と役所仕事にかまけ過ぎて、何をするにも遅すぎる」というわけだ。事実英国は、EUよりも2週間早く最初のコロナワクチンを認可し、即予防注射を開始。その後も速攻で予防注射アクションを推し進めて、一月下旬時点ですでに国民の10%以上が第一回目の予防注射を済ませたことが発表されている。(ちなみに同時点でドイツは2%程度に過ぎなかった。)大事なことをこれだけ早く進められるのは、英国がEUの足枷から脱出したからだ、と言いたいわけで、英国内では、「なぜBrexitがいいのか、ようやく腑に落ちた」といった国民の声も聞かれているとドイツでは報道されている(全国新聞Zeit
2021年1月27日付記事「Brexitにはもってこいの宣伝」より)。
この喧嘩もまだ進行中で、一体これはいつかは収束するのだろうかと疑われる状況だが、そんな中同じワクチンをめぐってまた一つ喧嘩のタネが生じた。「英国民、ドイツに怒り」という新聞見出し(全国新聞Frankfurter
Allgemeine Zeitung 2021年1月30日付)が告げているニュースである。ワクチンの出荷数が減らされた件とは一見関係はなさそうなのだが、同時期にドイツの疫病学研究所Robert-Koch-Institutが、AstraZeneca社開発ワクチンの効能に疑問符を付け、ドイツ連邦政府に「ドイツでは65歳以上の人間には使用しない方がよい」と忠告したのである。このワクチンに関しては65歳以上を対象にした治験データが少な過ぎ年配者への十分な効果が確認できていないため、ドイツではこのワクチンの使用は64歳以下に限った方がよいと発表したのだ。一方英国ではとっくに年配者にも同ワクチンが使われれているために、ジョンソン首相は国民を安心させるためにもこのドイツ側の発言に真正面から対抗する姿勢を取り、英国メディアも、これは「英国科学技術に対するアンフェアな発言であり、英国の高齢者の不安を無用に煽るものだ」とドイツを批判している(2021年1月28日付Daily
Telegraph 記事より)。EUでの使用を認めた欧州医薬品局(EMA)は同ワクチン使用の年齢上限を設けておらず、このような慎重さはスピードより安全性を重視するドイツ独自のやり方であると思われるが、英国の神経を逆撫でしたことは間違いなく、このあたりからドイツのメディアはAstraZenecaをめぐる一連の騒動を「ワクチン戦争(Impfkrieg)」と呼び始めた。そしてこれに続いて先日、この「ワクチン戦争」の中で今度はEUが愚かな一歩を踏んでしまう。それは、あたかもEUがワクチン出荷数をめぐる英国との喧嘩に我を忘れ、感情が先走って冷静に考えられなくなったかのような一歩であった。AstraZeneca社はEU内にも二か所生産拠点を持っているのだが、EUは、この大陸拠点から同社のワクチンがEUを通り過ぎて英国に輸出されるのを監視するために、あれだけ危惧していた北アイルランドとアイルランド間の国境検問を一時復活させようとしたのである。大陸からアイルランド経由で北アイルランドに輸送されるワクチンの数量を勘定し、場合によっては制限することがEUの意図であった。この措置を発表する前、EU保健総局のキリアキデス委員は「EUには、AstraZeneca社のワクチンが一体どの国にどれだけ出荷されているのかを正確に調べる手段がある」と発言している。だがEUがこの計画を発表するや、まずは北アイルランドから激しい非難が飛んできた。北アイルランドのフォスター首相は、EUのこの無思慮な一歩を「信じられないほどの敵対行為」であり「攻撃的かつ恥ずべきやり方」であると徹底的に非難し、ジョンソン首相にすぐにこれを止めるよう要請。これに応じて英国からもアイルランドからも「大いに懸念」する旨がEUに伝えられ、即刻説明が求められた。だがその間にEU側もようやく我に返ったのであろうか、北アイルランドとアイルランド間の検問を開始する案は同日のうちに、EU自身によって取り下げられたのである。
こういう展開を見ると、国家間の喧嘩は人間同士の喧嘩と根本的に同じだなとつくづく思う。感情に任せて余計な一言を言ったり、怒りのあまり無思慮な行動に走ったり、直接怒鳴りあえない分復讐と嫌がらせに執着し、関係にヒビが入っていく。苦労して築き上げてきた友好関係も、崩れる時は実に簡単なのであろう。それにしてもどの国にとっても朗報であるべきコロナワクチンの完成が、国家間の喧嘩を引き起こすというのは皮肉である。今こそどの国も視点を自国の境から欧州全体に向けるべきであろうと思うのだが。たとえ自国が少々後回しになったとしても、変異ウィルスによる感染拡大が心配される英国を含めた欧州全体に予防注射が普及していくなら、それは結果的には自国にとっても良いことなのだから。2月に入った今も、保健省を中心とするEU各国政府、欧州委員会、製薬会社、ロンドン政府の間で、EU内ワクチン不足の責任のなすり付け合いは続いている。
コメント
コメントを投稿