民主主義の鼓動

 ベラルーシやロシアから送られてくる映像を見るたびに、見ているこちらの動悸も高まる気がする。政権に反対し民主化を求める市民たちの抗議運動だ。ベラルーシでは昨夏の不正大統領選挙以来いまだに、ルカシェンコ大統領への抗議デモが定期的に続けられている(これについての詳細は、2020821日付記事「ベラルーシ騒乱とロシアの思惑」参照)。そして反体制政治家アレクセイ・ナバリヌイ氏の逮捕を機に、ロシアでも今や全国100近くの都市で市民抗議デモが展開している。昨年8月にロシアで毒殺未遂事件の被害者となったナバリヌイ氏は一時生死を危ぶまれたものの、ドイツの病院で無事健康を取り戻した(これについての詳細は、2020920日付記事「ロシア毒殺未遂事件で始まったポーカーゲーム」参照)。そして1月半ば、ナバリヌイ氏は妻と共にモスクワに戻った。あらかじめロシア政府の警告と威嚇があり、ロシアに戻れば即刻逮捕・拘留される危険が大きかったにもかかわらず、ソーシャルメディアであらかじめ到着時刻まで予告しての帰国である。モスクワ近郊の空港には氏の出迎えに8000人以上の支援者が集まろうとしたが、ロシア政府は逮捕をちらつかせて彼らを脅して空港内に入れぬようにし、更にコロナ感染リスクを理由にジャーナリストも空港から閉め出した。そのあげく、まだそれでは不足と考えたようで、ナバリヌイ氏の航空機は迂回させられて結局予定とは違う空港に着陸させられた。帰国途上ですでにナバリヌイ氏はロシア政府の嫌がらせを受けたわけだが、一人の人間にここまで手を打つというのは、クレムリンがどれだけこの人物を恐れているかが分かろうというものだ。その後危惧されていた通り、ナバリヌイ氏は入国と同時に逮捕され、スピード審理によりまずは30日間拘留されることになった。そしてその後2月に入ってすぐに行われた裁判では、正当な法的根拠なしに更に28か月の禁固刑を言い渡されることになる。これに対しては同日のうちに、諸外国政府から「即時釈放」を求める声明が発表された。

 

ナバリヌイ氏逮捕の数日後から、まずは厳寒の首都モスクワで、一万人を超えるロシア市民による氏の釈放を求める抗議デモが始まった。ロシア政府はコロナを理由にデモを厳しく禁止しているが、この禁を破った人間は逮捕すると脅す警察権力をものともせずに、モスクワの広場や街路に集まる市民の数は日に日に増え、更にこの抗議運動はあっという間にロシア全土に広がっていった。ドイツの主要メディアではほとんど毎日この様子が報道されているが、多くの町で数千人単位での逮捕者が出ているということで、映像を見る限り、プーチンのロシア政府はデモに参加する人々に対して過酷な手段に出ることを決めたようだ。テレビニュースの画面には、数人の警官が一人のデモ参加者を押し倒して積雪の中に押さえつけ、足蹴にし、警棒で打ちのめしたり、最後には抱え込んで無理やり護送車に放り込む場面が次々と映し出される。残酷極まりないやり方であるが、警官隊の武力制圧にもかかわらず、2月に入ってもデモの規模は全国に拡大を続けているという。時折ドイツの報道班がデモ参加者にインタビューするが、マイクを向けられて答える市民の何が印象的かというと、ベラルーシの時同様に、彼らが冷静で自信に満ち、そしてその自信から来るのであろう一種の明るさを湛えていることだ。ロシアの抗議デモはもはやナバリヌイ氏釈放を求める声を超えて、「ロシアは自由に意見を言える国に変わらねばならぬ」、「汚職と独裁を続けるプーチン政権は終わりにしなければならぬ」という声に拡大してきているのである。ある若い男性は言う、「私は決してナバリヌイ氏の支持者ではない。でもロシアにはしっかりした野党が必要だ。」ある中年の女性は言う、「国家による嘘や略奪に抵抗するデモだというので、やって来ました。」20歳前の若い女性は言う、「ナバリヌイ氏が大統領になればいいとは思っていません。でも政府が自分で自分を選ぶのではなく、国民が政府を選べるようになって欲しいのです。」自分たちが要求していることは正当で、当たり前のことなのだという彼らの確信が、ロシアの抗議デモを自然な形で全国に広めたのであろう。そしてロシア政府がこの市民運動にここまで過酷な対抗手段を取っていることからは、為政者がこの市民運動の拡大に抱いている恐怖の大きさが感じ取れる。デモ参加者の一人は次のように語っていた-「われわれの権力者が今やわれわれ国民を恐れているのがよく分かる。彼ら自身、どうしていいか分からないでいるのだ。」

 

このロシアに対して、EUやドイツはどうしようとしているのか。ナバリヌイ氏逮捕直後にEUはロシア政府に対し「氏の即刻釈放」を正式に求めたのだが、ロシア側はこれを「内政干渉」であるとして突っぱねた。従ってEUに残された平和的手段は「制裁」ということになる。昨年ナバリヌイ氏毒殺未遂事件の直後から、ロシアに対する制裁をめぐってはEU内でも議論が起こったが、焦点となるロシアとEUの共同プロジェクト、バルト海における海底天然ガスパイプラインNord Stream 2敷設プロジェクトを続行するか中止するかについては、EU各国間の利害の不一致が邪魔をして結論が出せないままに終わっていた。その結果これまでEUがロシアへの制裁として実践しているのは、一部要人を対象としたEUへの渡航禁止やEU内資産凍結といった常套手段に留まっている。今回ナバリヌイ氏逮捕とその後の抗議デモ参加者の多数逮捕を受けて、125日、EUはロシアへの新たな制裁について話し合うための外相会議を開いた。その前にすでに欧州議会では、議員の過半数がロシアへの制裁拡大に賛成を表明している。更に今回はバルト三国やポーランドなど、外相会議が開かれる前から強い制裁を求める国が少なくなかったのであるが、実際の会議の席上では、ドイツを中心にいくつかの国が新たな制裁案に強いブレーキをかけたことが報道されている。ロシアのやり方を批判する点では各国外相の声はほぼ一致しているのだが、今新たな制裁を加えるかどうかとなると反対の声が強くなるのである。「制裁の拡大は今すぐ決めるべき事柄ではなく、もうしばらくロシア国内の展開を見守ってからの方がよい。クレムリンが市民の抗議運動に屈してナバリヌイ氏を釈放する可能性もある」というのが制裁反対派の意見であったようだが、説得力には欠ける。制裁に消極的な国はもちろん前述のNord Stream 2に投資したり、ここからの天然ガス供給を当てにしている国であり、その代表がドイツなのだ。米国がこのロシアとEUのプロジェクトに口出しし、関与したEUの企業に対する制裁を決めて以来建設工事はしばらく中断されていたのだが(これについての詳細は、2020815日付記事「ガスパイプラインNord Stream 2をめぐる米国との争い」参照)、最近再開の目途が立ち、残る僅かな距離の建設が急がれようとしているところである。ドイツはメルケル政権も、バルト海に面しこのプロジェクトに直接関与しているメクレンブルク・フォアポメルン州も、「困難な時期であるからこそ、ドイツはロシアとの対話を一方的に打ち切るようなことをしてはいけない」との理屈で、Nord Stream 2建設を中止にするつもりはないことを明言している。こうして結局1月末のEU外相会議ではこれまで通り何の合意にも至らず、この一件については3月に開催される欧州理事会(注:EU加盟国国家元首の会議)に持ち越されることとなった。

 

ところが2月に入ってEUの情勢に変化が生じた。これまでドイツ同様Nord Stream2プロジェクトに積極的であったフランスが、民主主義を求めるロシア市民が次々逮捕されている状況を顧慮してこのプロジェクトの中止を唱える側に回ったのである。このプロジェクトに投資しているEU企業は5社(国籍は、ドイツ、オーストリア、オランダ、フランス)あるが、そのうちのフランスのエネルギー供給企業Engie社の株は、その約4分の1を国が保有している。それでもフランスはこのプロジェクトの中止を訴える側に立つことを決めた。これまでマクロン大統領自身はメルケル首相に気を遣っているかのようにこの件についてはっきり発言してこなかったのだが、先日側近の一人ともいえるEU担当次官に、フランスはこのプロジェクトを中止する用意があることを明言させた。フランスがドイツに背を向けたことは、ドイツにとっては欧州議会の意向や米国の制裁などよりも大きい痛手となる。因みにこのフランスの方針転換の背後には、もちろんフランス自身の思惑があるとドイツでは囁かれている。ロシア市民の民主化運動云々は建前に過ぎず、その裏にはフランスの政治的意図があれこれ憶測できるというわけだが、それにしてもNord Stream 2中止賛成派リストに今フランスが名を連ね、このリストは長くなりつつある。最悪の場合、ドイツはこの一件でEUの中で孤立していくことにもなり兼ねない。一方ドイツ国内においても、プロジェクトが開始した当初から反対の声は少なくなかったのだが、今また、特に緑の党を中心として「即刻中止」を叫ぶ声が高くなってきている。「このパイプラインは、欧州全体の地政学上利益に反するのみならず、欧州の気候変動抑止目標にも反する。更に今ロシアに対する制裁を決めようというEUの連帯にも逆行するもので、これは最悪のプロジェクトだ。」(緑の党党首アナレーナ・ベアボック氏)そして予想通りFridays for Future運動家たちもこのプロジェクトへの抗議運動を再開し、気候変動対策に力を入れると言いながらその一方でドイツへの天然ガス供給量を増やそうとしている連邦政府の矛盾を突いて、「悪い冗談」、「『きれいな天然ガス』という汚い嘘」といったプラカードを掲げて抗議デモを展開している。

 

今、ロシアの勇気ある市民たちが民主主義を求めて立ち上がっているその鼓動が聞こえてくるようなドイツにいて考えるのは、果たしてドイツには、彼らと連帯するだけの勇気があるだろうかということだ。長い年月をかけ準備し投資して、ドイツのエネルギー転換の一つの柱にするべく進めてきたこの天然ガスパイプライン建設プロジェクトを、完成間近に中止する勇気である。このプロジェクトにしがみついている限りドイツの声は、民主化を求めるロシア市民にも、彼らを弾圧しているロシア政府にも決して届かないであろう。

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