目に見えるものと見えないもの

 もう30年以上も前の話になるが、ドイツの小さい大学町の学生寮に住んでいたある夜、歩いて行ける友人宅を訪ね夜中までワイン片手におしゃべりを続けていた。夜が更け、もう1時頃になっていたであろうか、突然友人が「そろそろ行こうか」と誘ってきた。え、まだ何かあるの?と聞き返したところ、このくらいの時間が一番いいんだよ、森の散歩には、と言う。真冬で外は雪景色、私たちの居住区は町の端っこで友人宅の裏からは背後に森が広がっている。ドイツの町はフランクフルトのような大都市でも一部森に接していることが多いので、これは珍しいことではない。こうして私たちは雪が一休みした夜中に、時々うさぎや鹿の足跡が点々とついているまっさらな雪を踏んで森の中を散歩した。木々の背後で小動物がかさこそと動く気配がする以外、森の中は静まり返っている。誰もいない暗い森の中を夜中に散歩するなんてちょっと怖いね、という私にその友人は、「人間がいないから安全なんだ、それに今日は月が明るくてよく見える。目に見えるものは怖くないよ」と答えた。確かにたとえ月が明るい夜でなかったとしても、こんな町境の森であれば街中の灯が夜空に反射して決して真っ暗になどならない。目が慣れれば雪の白もほのかに光っているようで、鬱蒼と重なり合っている黒い木々の影も黒から灰白色まで多彩なバリエーションを見せている。そのような森の中を、この夜私たちは一時間ほど歩き回ったのだった。

 

「目に見えるものは怖くないよ」―もう30年も昔のあの時の友人の言葉を今でもまだ鮮やかに覚えているのは、その後も長くドイツに住み続けた私がドイツ人を観察していて、あることに気付いたからである。どうやらドイツ人は、目に見えるものより目に見えないものを怖がる傾向があるようだ。そして私には、この点でドイツ人は日本人の真逆であるように思えるのである。簡単な例を挙げるなら、例えばマスク。今回のコロナ禍でドイツで何が画期的であったかと言えば、ドイツ人がマスクに慣れたことである。それまでドイツ人はマスクが怖かった。マスクをしている人が、という意味だが、マスクは顔の半分を隠す。顔の半分が見えない相手と話をすることはドイツ人には恐怖だったのではないか、と私は想像しているのである。日本人と中国人はマスク好きで、コロナの前からドイツの街中ではよくマスクをして歩いている日本人や中国人の観光客を見かけた。都会ではもう珍しくない光景になったが、どんなに多国籍の人々が歩いているフランクフルトでもマスクをしている東洋人の集団はなんとなく周囲から浮き上がっているように見えたものだが、それはドイツ人が無意識にこれらの人々を避けているようだったからでもある。相手の顔を真正面から見据えて話すことに慣れているドイツ人にとっては、たとえ両目は隠れていなくても顔の半分がマスクで覆われ全体の表情が分からない人間を目の前にするのは、落ち着かないものがあったのだろう。ドイツ人が話しながら相手の表情の何に注意し、何を読み取っているのかは知らないが、相手の顔全体が見えることが大事なのである。コロナのおかげ(?)でマスクへの恐怖は克服したであろうドイツ人だが、もっと大きい例が放射能に対する恐怖である。福島原発事故には全世界が衝撃を受け多かれ少なかれ不安に包まれたが、あの時のドイツ人のパニックぶりは半端ではなかった。直後にガイガーカウンター(放射能測定器)が売り切れた、というニュースには、そんなものどこで売っていたのだろうと不思議に思ったものだが、その後も放射能汚染による甲状腺疾患を防げると言われるヨードのサプリメントの売り切れが続いた。風向きによっては東京が危ない!とドイツで大騒ぎしていた同じ頃、当の東京周辺の住民たちは私が電話で話した限り、「へえ、危ないの?」といかにものんびりしていた。あの時世界で一番震え上がっていたのはドイツ人ではあるまいかと思えるほどドイツ人が感じた恐怖は大きく、原子力と仲良く共存しているように見えるお隣のフランスでは「ドイツの大袈裟な反応」は随分笑われていたようだ。だがおかげでドイツは脱原発を決めることができた。

 

今回のコロナも「目に見えない恐怖」としては、原子力への恐怖と同じ類であろう。昨年12月からの厳しいロックダウンも、日々の新感染者数と死者数の上昇ぶりに恐怖を感じた過半数の国民の要求があって政府が踏み切ったものだ。そして地球温暖化への不安と恐怖もまた多数のドイツ人に共有されている。ここ数年、夏の高温少雨で国内の一部地域で森が死にかけていることが大きな問題となっているが、そのような光景をニュース報道で見るまでもなく、夏に近所の隣人たちと交わす立ち話の話題は「この辺りの乾燥状態」に集中する。裏の森の木々はまだ元気に見えるけれど地下水は足りているのであろうか、間もなく大木ですら十分な水を吸い上げられなくなってくるのではないだろうか、といった不安を交し合うのである。そしてもう一つ、ドイツ人が目に見えないものを怖がる大きな例だなと私が感じたのは、いきなり話が跳ぶようではあるが、極右政党AfD(ドイツのための選択肢党、詳細は20201214日付「極右政党AfDの罠」参照)の支持状況である。AfDはドイツ全国に一定の支持者を持つ政党に成長してしまったが、その中でも特に支持率が高いのはかつて東独であった5つの州である。これらの州の直近の州議会選挙では同党はどこでも20%以上の得票率を上げたが、前回2017年の総選挙後、各党の支持率の分布状況を見てはっきりわかったのは、AfDの得票率とその地域に居住している外国人率がほぼ反比例していることである。AfDはイスラム系難民を中心とした外国人排斥を第一のスローガンにしている政党であるが、外国人率が低い地域であればあるほど、AfD支持率が高く外国人排斥運動が盛んなのである。理屈で考えればこれは逆であるべきだ。外国人率があまりに高いからドイツ人の職が奪われている、あるいは彼らの福祉に支払う額が膨れ上がり税金が他に回らない、といった理由があるのであれば、外国人排斥気運が高まるのも少なくとも理屈の上では理解できる。だが実情は全く反対で、ほとんど外国人を見ない地域の住民たちが外国人排斥を声高に唱え、逆に外国人率が半分に近づきつつあるここフランクフルトのような都会では、日常的には“平和的共存”が実現しているのである。(これは、外国人が多過ぎてもう構っていられないという事情によるのであろうが。)この傾向はどう理解すべきかと考えると、短絡的に過ぎる結論かもしれないが、そこには「姿が見えないからこそ募る、外国人に対する漠然とした恐怖感」が働いているのではないだろうか。そうだとするならこれなどは、「目に見えないもの」への非理性的な恐怖と言えるであろう。

 

そして民主主義。民主主義が危機に瀕している様は目に見えない。ある日突然民主主義を否定する法律が登場するのではなく、その登場の土台は目に見えぬところでじわじわと作られていく。この、「目に見えないところでじわじわ」がドイツ人は怖いのだ。だから何かというと国民の中からすぐに「民主主義の危機!」を叫ぶ声が出てくる。コロナ禍の昨年は、あらゆる脈絡でこの言葉が聞かれた一年であった。コロナ感染を抑えるために政府が営業禁止や集会禁止を決めるや、基本的人権を脅かされ「国民が自分で決めて生きる自由」を制限されたと反対の声を上げるグループが登場する。すったもんだの末行政や司法がコロナ対策の是非に結論を出すや、今度は行政自身の中から「国民を代弁する立法(議会)が関わらずに決めてしまっていいのか」との疑問が投げかけられる。そしてせっかく昨年末無事スタートにこぎつけたコロナ予防接種にしても、今になって「この予防接種を受ける順番は最終的に連邦保健省が決めたが、この決定の過程に立法が加わらなかったことはまずいのではないか」との声が出てきている。目に見えない「じわじわ」の進行にかけられるハンドブレーキの数が、ドイツには多いのだ。このハンドブレーキがいざという時にまともなブレーキとして正しく働くかどうかはまた別の話になるが、目に見えないものへの恐怖が国民の間にこうした沢山のハンドブレーキを用意しているのであれば、この恐怖には非理性的なだけではない健全な側面もあると私は思うのである。

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