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7月, 2021の投稿を表示しています

デジタルユーロがやって来る

コロナ時代、ドイツではどこで買い物をしようとレジのところに大抵「お支払いはなるべく『コンタクトレス( contactless )』でお願いします」との注意書きが掲げられている。現金の受け渡しによる感染危険を避けるために、なるべくスマートフォンかカードによる決済方法を選んで店員とのコンタクトを無くしてくれ、という意味である。コロナ禍にあってドイツでは、そもそも店舗が閉まっていたり入店できる人数制限を行っていた時期が長かったので、買い物も支払いもインターネットで行うケースが急増したと思われるが、もともとドイツ人は EU の中でも特に現金好きの国民で知られている。今年初頭にドイツ連邦銀行が発表した 2020 年のドイツ消費者の決済方法調査によれば、コロナ年であったにもかかわらず昨年は、店舗での買い物の 61 %が現金払い、 36 %がカード払い、そして残りの 3 %がスマートフォン決済などその他の方法が取られたという。日本で「カード払い」というとクレジットカードを指すが、ドイツでは圧倒的に銀行口座カード( Girocard )が使われる。ドイツの銀行口座カードは日本の ATM カードとは違い、単に銀行の ATM を操作する時にのみ使われるだけではなく、商店、飲食店、美術館、役所などほとんどどこでも支払いに使うことができる。即時決済で自分の銀行の普通口座から引き落とされる簡便な決済方法だ。前述の、「ドイツの消費者の 36 %がカード払い」の「 36 %」の内訳は従って、この銀行口座カードが 30 %、クレジットカードが 6 %となっている。それでもいまだに過半数が現金払いを優先させているドイツは、スウェーデン、ノルウェー、デンマークをはじめとする北欧の国々がすでに「キャッシュレス社会( Cashless Society )」モデルを確立していることに比べると、この点でかなりの後進国なのである。   フランクフルト市内マイン河畔にそびえる巨大なビルを拠点としているユーロ紙幣銀行の欧州中央銀行( ECB : European Central Bank )が、 7 月 14 日、今後二年間に亘る大プロジェクトとして、デジタルユーロ導入準備に動き出すことを正式に発表した。「デジタルユーロ」なるものについては、今年に入ってから ECB 総裁のクリスティーヌ・ラガルド氏...

洪水と政治

暑かった 6 月が終わり 7 月に入ると、ドイツは気温が下がり全国的に雨の日が続くようになった。特に 7 月の第 2 週末あたりから一部の地方では連日豪雨となり、河川や湖の水位が一気に上昇する。中でもドイツ北西部の州、ノルトライン・ヴェストファーレン州とラインラント・プファルツ州で洪水による被害が拡大していくのは、 7 月 14 日の夜からであった。この地方では、この日一日で 1 ㎡あたり 150 ℓ以上の雨量が記録されたという。その結果谷間の小さい集落では近辺を流れる細い支流があっという間に氾濫し、急流となって村全体を押し流していった。一方で幅の広い川はじわじわと水位を増していき、なんとか堰き止めようとする住民たちの努力を結局は無にして氾濫に至った。いずれにせよこの大洪水で最も被害を受けた地域では、電力、水道、ガス、携帯網、橋、道路・・・などのインフラが完全に破壊され、住民たちはあっという間に住宅、店舗、農地、ブドウ畑といったすべての財産を失うことになる。瞬時に家の中に濁流が流れ込み家ごと押し流される、あるいは家が倒壊する恐怖について語る人々、そうなったらもう何かを運び出すことなど不可能で自分の命を救おうとする以外は何もできないのだと涙ながらに語る住民たちの言葉、そして上空から撮影された急流に丸ごと押し流されていく集落の映像に、テレビを見ていた視聴者も言葉を失った。このような被害に遭ったのはもちろんドイツだけではない。オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスといった欧州西部から、スイスやオーストリア、クロアチアなど欧州中部に至るまで被害地域は広範にわたり、当初はその災害規模が 2013 年 6 月に欧州中部を襲った大洪水と比較されていた。だがその後も止もうとしない雨と、何より日々増える死者の数で、もはや 2013 年の比ではないことが明らかになり、気象庁は、ドイツにとっては 100 年に一度の「世紀の大洪水」であることを発表した。 2013 年の洪水被害の死者数がドイツ国内では 8 人であったのに対して、今回の大洪水でドイツ国内で亡くなった人の数は、現時点( 7 月 22 日)で確認されているだけでも 175 人を超えているのだ。しかも、携帯網が破壊されたことで音信不通となっている行方不明者が一週間以上経った今も 100 人以上いると言われており、物的被害のみ...

村の生活

周囲をなだらかな丘陵に囲まれた人口約 600 人ほどの小さい集落に、ある日突然大きい十字架が現れた。真新しい角材を組み合わせただけの素朴な十字架であったが、高さが 2 ~ 3 mはあり、それが村を見下ろす丘をめぐる小道の脇に、ある日突然出現したのである。その山道にはもともと村を見渡せる形で木のベンチが一つ据えられていたのだが、天気のいい日に村人が散歩で通るほか人通りはない場所である。そのベンチのすぐ脇にこの十字架は立てられていた。ある日突然現れたこの十字架に最初に気づいた村人たちは、一体誰が何の目的であそこに十字架を立てたのであろうかと不思議に思った。こうして最初は隣近所とのおしゃべりの話題になったこの十字架は、その後日曜の礼拝時に教会でも噂話の中心になっていく。教区民が牧師に聞いても、牧師も知らないと言う。最初に十字架に気づいたある村人は、その時の不思議な気持ちとこの十字架を自宅の庭から毎日仰ぎ見る時の喜びを詩にしたのだが、牧師がその詩を教区民のために定期的に発行している「教区新聞」に載せたため、この十字架は最後には村人たち全員が知るところとなった。この村を見守っているようなあの十字架は一体どこからやってきたのだろう、なぜあんなところに突然現れたのだろう、という謎はその後も結局二か月近く村人たちの共通の話題となり、その不思議さがなんとなくわくわくするような密かな楽しみとして村人たちに共有されていったのである。いいじゃないか、謎は謎のままで、といった共通の認識が村人たちの中に生まれた頃、この謎はあっけなく解けた。なんと最初にこの十字架に気づいた村人の家のすぐ裏に住む年配の男性が、ある夜こっそりとこの十字架を立てていたのだった。この男性は一年ほど前に癌の診断を受けて以来闘病を続けていたのだが、患部を除去した後転移もなく最近無事に退院していた。闘病中はずっと神と対話しており、もし治ったなら何らかの形で絶対に感謝の気持ちを表そうと決めていたのだという。それがこの十字架になったのである。   この話は実は、バイエルン州北部の小さい村に住む私の義母が私に話してくれたエピソードだ。最初に十字架に気づいて詩を作ったのも、この義母である。この村には教会があって、あとは礼拝の後で村人たちが一杯ひっかけたり家族で昼食をとったりする料理屋がすぐ教会の向いにあるぐらいで、ほ...

オランダ王妃の帽子と報道の自由

王室大好きのドイツ国民には、英国王室のみならずオランダ王室も人気が高い。特に人気の的になっているのは、オープンで飾らぬ人柄と快活な美しさに輝くマクシマ王妃だ。このオランダ国王夫妻が 7 月 5 日から 7 日まで、親善の目的でベルリンを訪れた。コロナ感染の危険から一般市民と直接交流する場はなかったものの、二人は連邦議会を訪れ、メルケル首相や連邦議会議長のヴォルフガング・ショイブレ氏と面談し、夜は連邦大統領主催の晩餐会に出席した。ウィレム‐アレクサンダー王は連邦議会で演説も行い、特に気候変動対策での両国の協力を呼びかけ、コロナ危機でドイツの病院がオランダの患者をも引き受けたことへの感謝を述べ、最後には「私たち二人は、今後も定期的に貴国を訪れます。好きな相手に対しては、時間を取り敬意を表するものですから」と、ドイツ国民の心をくすぐるフレンドリーな言葉で締めくくった。だが久しぶりに華やかな国賓を迎えたドイツメディアのカメラ班が追いかけたのはもちろんマクシマ妃の方で、王妃のファッションには注目が集まった。特に王妃の二日目の装い、腕や胸元が透けて見える柔らかなベージュ色の生地のミディ丈ワンピースに、同色の布地の花が沢山付いた頭よりも大きい帽子は人目を引き、数々の新聞がこの写真を掲載した。大柄なマクシマ妃の輝くような笑顔にこの帽子がよく似合っていたことは言うまでもないが、もう一つ、ドイツの新聞が好意的に報じたのが、このワンピースと帽子の組み合わせが王妃が数年前に訪英した際のファッションと全く同一だったことである。衣装を着回している王妃の慎ましさが、質実で庶民的で実によろしい、といった調子で、ドイツにおけるマクシマ妃の株がまた上昇したのである。だが、国王夫妻のこのドイツ訪問の最中にオランダでは由々しい事件が起こり、二人の顔を曇らせることになった。 7 月 6 日夜、アムステルダムの市街地で一人のジャーナリストが銃撃されたのである。   重傷を負い現時点でも生死が危ぶまれている被害者は、ぺーター・ドゥ・フリース氏という著名なジャーナリストで、重犯罪事件を追う記者としてオランダでは第一人者であると言われている。麻薬密売ルートを持つ犯罪組織を主に追いかけ、自ら積極的な取材調査を行い、裁判になれば重要証人をフォローして証言させるという幅広い活躍をしていた勇気ある人物であっ...

EUが持て余しているハンガリー、確執の見えない行方

  家族の和を乱しては周囲に迷惑ばかりかけている息子に、一家の厳しいお父さんが勘当を言い渡す― といったような一幕が、 6 月末の EU 首脳会談で見られたらしい。「不肖の息子」はハンガリー、「厳しいお父さん」はオランダである。とはいえ、父親が絶対権力を持つ家父長制の一家であれば言うことをきかない息子はとりあえず勘当できるのであるが、 EU ではそういうわけにはいかない。実際のところ 6 月 24 日に始まり、夜が更けて日付が変わっても続けられた EU 首脳会談一日目に繰り広げられたのは、オランダ首相のマルク・ルッテ氏がハンガリーのヴィクトール・オルバン首相に、「 EU を離脱してはどうかと勧めた」一幕であった。それはかなり感情的な場面であったようだが、果たしてどれほど激しいやり取りがあったかについては残念ながら公にはされていない。そしてオルバン首相は今回も、 EU 他国からの非難を意にも介さなかったようである。この首脳会談から数日経ったところでオルバン首相は、ハンガリーの EU 離脱はないと正式に発表し、 EU に次のような言葉を突き付けてオランダのルッテ首相への回答とした―「 EU が結束するつもりなら、自由主義国家は非自由主義国家の権利にも敬意を払わねばならない」。   今回批判の槍玉にあげられたのは、 6 月半ばにハンガリー議会が通した新しい法律であった。この法律は、同性愛や性転換など広く LGBT について、文章や画像、映像、あらゆるメディアにおける宣伝などで青少年向けに叙述することをハンガリー国内で禁ずる内容になっている。この法律は、 EU が共有する価値 -すべての人間の尊厳と権利を守り、その自由を尊び、差別に反対し、言論や表現の自由を保障する- に明らかに逆行するものであり、直後から欧州委員会では大いに問題視された。フォン・デア・ライエン委員長はこのハンガリーの新しい法律を即座に「恥( shame )」と呼び、「この法律は人間を性的指向で差別するものだ・・・私は、私たちがあるがままの人間でいることができ、愛したい人を愛することができるのが EU であると信じている」と述べた。そしてハンガリーでこの法律が施行される前に、 EU の担当部署からハンガリー政府にこの法律に対する法的懸念を表明する正式な手紙を出すよう手配したのである...

プーチン流歩み寄りとその波紋

 6 月 19 日、ドイツの全国新聞 Die Zeit の編集部に、ロシア大使館経由でプーチン大統領の原稿が届いたという。原稿はロシア語の原文にドイツ語訳が添えられていた。 80 年前の 1941 年 6 月 22 日は当時のナチ政権がソ連に侵攻した日であり、この日からソ連赤軍の対独戦が始まるのであるが、この侵攻はドイツでも「ソ連襲撃( Überfall )」と呼ばれ、 1939 年にドイツとソ連の間で結ばれた不可侵条約をドイツが一方的かつ意図的に破る行為であった。それに続く第二次大戦で亡くなったソ連兵士とソ連の一般市民は合計すると 2,700 万人にも上ると言われ、世界最多となっている。このナチスドイツによるソ連襲撃から数えて丁度 80 周年となる今年 6 月 22 日を前にして、 6 月 18 日にベルリンでは特別展「犯罪の広がり‐第二次大戦中のソ連捕虜たち」が開幕。これは 570 万人にも上るソ連兵捕虜たちに対してドイツが行った、国際法違反の残虐行為の数々を展示するものである。 570 万人のソ連兵捕虜たちのうち 300 万人が銃殺、あるいは餓え、病気、衰弱で亡くなった。これまでドイツでは、彼らソ連兵捕虜たちの運命に注目が集まることは少なかったので、今回 80 周年を機にこの展示会が企画されたのである。開幕の日にはドイツ連邦大統領のシュタインマイアー氏も演説を行った。ナチスの犯罪を語る演説でいつもそうであるように、この日の連邦大統領の演説も、「世界への警告として、われわれにはナチスの犯罪を常に思い起こす義務があること」を強調するものであった。そして、まさにこの記念日の 6 月 22 日に掲載して欲しいとロシアのプーチン大統領が Die Zeit 紙に送ってきたのが、前述の原稿だったのだ。戦後のソ連、そして今のロシアとドイツ、欧州との関係をプーチン大統領の視点から語ったこの記事は、ロシア側の指示通りこの日 Die Zeit 紙の電子版で発表され反響を呼んだ。それは、ドイツ統一から NATO の拡大、そして 2014 年に始まったウクライナ危機についての理解が、ロシアと欧州で全く異なることを今更ながらに明らかにする内容だったのである。   プーチン大統領の寄稿文の主旨は、「ロシアは欧州大陸最大の国の一つ」であり、「われわれが共有しているこ...