米国とドイツ:恩義と反発、熱狂と失望の歴史-②
(前回ブログ 「米国とドイツ:恩義と反発、熱狂と失望の歴史-① 」から続く) 1970 年代後半から 1980 年代前半は、東西の軍拡競争が更にエスカレートした時代であった。ソ連のアグレッシブな核配備で軍備均衡が崩れたと考えた NATO は、 1979 年末、これに対抗するため核兵器を搭載した米国製中距離弾道ミサイルを西欧に配備することを決める。また同時に、それと並行してワルシャワ条約機構との軍縮交渉を進めることも決めた。この「二足の草鞋」的決定内容が、‟ NATO 二重決議( NATO Double-Track Decision )”と呼ばれる決議である。この時西欧の多くの都市で市民たちの大規模平和運動が展開したが、西ドイツ市民の反核デモもドイツ連邦共和国史上最大規模の市民運動となり、首都ボンでは 50 万人もの市民がこのデモに参加したと言われている。これは同時に反米、反レーガン大統領運動でもあり、この時に西ドイツ国民の対米感情ははっきり世代分裂を起こしたのである。あくまで米国を支持し従う親世代と、“死より赤の方がまし( Lieber Rot als Tod )”をスローガンに掲げて米国に反対する若い世代だ。この‟ NATO 二重決議”は当時西ドイツの社会民主党( SPD )政権をも二分し、 SPD のヘルムート・シュミット首相は不信任投票で退陣に追い込まれる。その後政権を引き継いだキリスト教民主同盟( CDU )のヘルムート・コール首相が多数の国民の反対を押し切って米国に従うことを決め、核ミサイル配備を決めたのは 1983 年であった。米国にとっては西ドイツ国民が何を叫ぼうが西ドイツ政府が決定することこそが重要なのであり、この時西ドイツはまた米国への忠誠を証明したのである。 だがその後 1985 年に登場したソ連の新しい共産党書記長ゴルバチョフ氏のもとで、世界は大きく方向転換する。 1987 年、ゴルバチョフ氏とレーガン大統領の間で中距離核戦力全廃条約が結ばれ、 1989 年にはゴルバチョフ氏と新大統領ブッシュ(シニア)氏が揃って「冷戦の終結」を宣言する。そして 1989 年 11 月 9 日に東西ドイツの壁は崩れ去るのだ。壁が崩壊するまでの経緯の最大功労者は、ドイツでは、東独市民とゴルバチョフ氏であると考えられているが、こ...